ゆめとうつつ

 休日の街で、たまたま彼のことが見えてしまった。始まりはただそれだけ。
 その男の細く長い手足、色素の薄い肌や髪は、およそ日本人らしくなくて。なのに綺麗に和装を着こなすすらりとした長身。

「ほんまにしつこい奴やなあ…」

 おまけに小さく聞こえる独り言はまろやかな京訛りとくれば、やはり日本人だと思わざるを得ない。

「お前と遊んであげんのにも、もうええ加減疲れてしもた」

 彼がお前と呼ぶ対象は見えないものの、右手には物騒な抜き身の刃物が握られている。不気味にぎらつくのにしなやかなカーブを描く刀身は、そっくりその男の鋭い空気そのものだった。
 白昼の街角で遭遇するには、あまりに不自然な男。案の定、自分以外の数少ない通行人は、そこに何も存在しないかのように無関心なまま通りすぎる。

 ――またか。

 またか、と思った。私は幼い頃から霊感の類が弱いほうではない。けれど、気付かぬふりをすれば済む程度のものだったし、私には不可視の何者かが見えるのだと誰かに勘付かれたことはない。だから、今度も見えなかったふりをすればいい。そう思った。
 顔を反らし、あらぬ方向をみて、通り過ぎれば良いだけ。なのに。
 ざざっ…激しいノイズとともに空間が歪む。地面が揺れる。

「こんなときに目眩なんて…勘弁して」

 そうやってひとりごちたところで耳鳴りは止まない。不安定な足元。身体全体を締め付けられる感覚に吐き気をもよおし、不穏な波の中心に立つ男を見据える。ちら、と一瞬だけ男の眼がこちらを見ては離れる。
 まるで彼から風が起こるように、着物の裾はひらひらと煽られ、銀糸のような細い髪が強く靡いている。
 まともに立っていられず、塀に縋り付く。周りに人はいない。支えを見つけ強張った身体の力を抜いて、やっとのことでひとつため息を吐き出した瞬間、嘘のようにぐらつきが収まった。

 しゅるる。空気をなめらかに引き裂く音がして、銀髪の男の持つ刀が縮む。彼の対峙する正面には何者かの気配を感じたけれど、ぐにゃり、空気の歪むような奇妙な感覚とともに直後その不安定な感じは消えてしまった。

「なに…あれ」

 声になるかならないかの呟きが空に溶けて消える。
 残った男は袴の足を器用に捌き、脇差しの長さの剣を鞘に納めると、何事もなかったような涼しい顔で私の傍を通りすぎる。風に翻った白い羽織が呆然と立ち尽くす私の手の甲を撫でて、反射的に声が出た。

「……あ、」
「ん?」

 振り返って男の背を追えば、同じようにこちらを振り向いた彼の綺麗な顔が眼に入る。開いているのか閉じているのかわからない瞳を向けられて、咄嗟に口を押さえた。そうしなければ声が出てしまいそうだった。

「………っ!」
「なんやのキミ」

 あなたこそ何なんですかと聞きたかったけれど、知らぬふりをすると決めたのだ。うすら笑いを浮かべた男とは、わざと視線をずらす。私はなにも見えない。見えていない。

「もしかしてボクのこと見えるん?」
「………」
「まさか、な」

 こちらを見ているようで、決して私を写さない瞳。その瞳から焦点をずらして、何も見えないふりをすればいい。いつものように。
 なのに、何故だろう。

「現世の女の子ォにボクが見える訳ないよな」
「………」
「こない可愛いんに、残念」

 高い背を屈め、顔を覗きこまれる。至近距離に綺麗な顔が近づけば、どうしても眼を反らせなかった。
 薄く開いた瞳に映った姿に、掴まれる。思いがけず透き通った双眸。胸が裂けそうなほどに波打っていた。

「ほんま、残念やわァ…」

 柔らかい声がじわじわと鼓膜から染み込んで、それと同時に密度の濃くなった空気にぎゅうぎゅうと締め付けられる。また、耳鳴りに似た感覚で足元がふらついた。

「……っ!」
「おっ…と」

 急に酸素が薄くなった気がして胸を押さえたまま片手で空を掴んだら、柔らかくてのひらを包まれる。男の体温を感じた。

「あ…」

 咄嗟に握りしめた指をしっかりと握り返す感触。もう一方のてのひらを目の前でひらひらと翻されて、思わず瞬きを繰り返す。

「やっぱり見えてんねや」
「………っ、い……」
「嘘つきさんやなァ」

 そう言いながら、男はすんなりと私を胸へ抱き寄せた。と、次の瞬間にはふたり揃って宙に浮いている。さっきまで立っていた地面が遥か下の方に見えて、思わず彼の胸元にしがみつく。

「ほらな。やっぱり嘘つきさんや」
「………」
「見えてへんもんにはしがみつかれへんやろ?」

 条件反射で握りしめた羽織には、皺が寄る。その掌を上からそっと掴まれて、頬を男の髪が撫でた。額が触れそうなほど近くに、彼の顔。
 こんなに高い所まで昇ってしまえばもう誰に何を隠すこともない。私と彼以外、ここにはいないのだから。

「……はい」
「素直なエエ子は、ご褒美に家まで送ってあげるわ」
「結構…です」
「そんな訳に行かへんよ」

 地上より随分高度が高いせいだろうか、3℃ほど気温が下がった気がしてちいさく震えたら、ふわりと羽織に包まれた。品のあるいい匂いがする。

「キミがそんなんなってんの、ボクのせいやから」
「………え?」
「力抜けてしもて、上手いこと歩かれへんのやろ?」

 その通りだ。たぶんこのまま地面に下ろされたとして、すぐに歩き出せる自信はなかった。「どっちやの?」男に促されるまま道案内をして、一分後には自分の部屋に座っていた。


「ありがとう…ございました」
「礼なんてええから、お茶一杯だけ飲ましてくれへん?」

 自分の部屋に見知らぬ男がいる。胡散臭い笑顔を貼付けた、得体の知れない男。
 湯呑みを差し出しながら、端正なその顔を凝視する。薄いくちびる、すうっと通った鼻筋、繊細な糸のような銀髪。

「ボクに会うたことは、キミだけの秘密にしといてな」
「はい」
「人間と死神の接触は厳重に禁じられてるさかい」

 ボクが死神言うんも内緒な、と彼は肩を竦める。死神――たしかにどこか、この世のものではない存在感が彼からは滲み出ている。言える訳がないと思った。第一、私以外の人には彼の姿なんて見えていないのだ。

「ほんなら、また」
「……もう?」

 何事もなかったように立ち上がり、窓から出ていこうとする背を引き留めたいと思ってしまった。引き留めるような言葉が出た。そんな自分が意外に思えて、唇をそっと噛む。
 得体の知れない男、なのに――


「ギン。市丸ギンや」

 そうひとことだけ言ってさらりと頬を撫で、一瞬後に彼は空へ消えた。途端に強烈な睡魔が襲い、一気に深い眠りへと吸い込まれる。

 ――市丸…ギン。


 それからどれくらい経ったのだろう、眼を覚ませば辺りはやわらかい闇に包まれていた。銀髪の死神、空に浮いていた自分、男のやわらかい声。すべてが夢の中の出来事のようで、実感をのこさない。あやふやで筋の通らない出来事は、夢の特徴そのものだ。
 夢だったのに違いない。

 なのに、なぜこんなに胸が痛いんだろう。

「疲れてるのかな…」

 立ち上がって薄暗い部屋の明かりを燈せば、飲みかけの湯呑みがぽつんとテーブルに残っていた。





 なんの変哲もない平穏な日々のなかで、時折彼のことを思い出す。
 あれから、彼の姿を見かけたことも、身体がぎゅうっと締め付けられるあの日の感覚を感じることもなかった。
 やっぱり夢だったのかもしれない。
 何度思いだしても、余りに現実感のなさすぎるたった数十分の出来事。すらりとした長身と和装、胡散臭さを貼り付けたような笑顔。そのイメージは日々曖昧になって行く。
 よく思い出せもしない男のことが頭に浮かぶたび、どうして心がふるえるのか、ただ不思議だった。

「…きっと、夢にしてはあまりにキレイ過ぎたから」

 ほんとうに掴み所のない、どこもかしこもきれいな男。

「何か言った?」
「ううん。別に何も…」

 隣を歩く同僚に作り笑顔を返し、立ち止まりそうな足を進める。もうすぐ彼に出会ったあの場所。夢と現の狭間で、宙に浮かんだあの場所。

「最近、結構ぼんやりしてること多いよね。大丈夫?五月病とか…」
「ぜんぜん、大丈夫」

 気配もなにも感じない。今日も、居る訳がない。
 分かっていて、毎日この場所を通ってしまう。わざわざ遠回りをしてしまう。それが何故なのか、理由も分からないのに。

「じゃあ、また明日ね」
「お疲れさま」

 夕闇の街、立ち去る同僚の背を見えなくなるまで見送って、重い足をふたたび動かしたら、微かにあの匂いがした。ような、気がした。


 その晩、彼が夢に出てきた。
 本当に久しぶりに映像化した銀髪男を見た途端、胸の奥がぐっと詰まって。品の良い香りを、眠りの中で嗅いだような気がした。あの腕に包まれて宙に浮いている浮遊感を、たしかに感じた。

「…っは!」

 眼が覚めた部屋はまだ真っ暗、ここは自分の部屋で私はやっぱりひとり。肌に残る感触を追いかけるように、自分で自分を抱きしめる。

 ――夢…。

 夢だったのだと、気付いたら無性に泣きたくなった。
 時計の秒針の音すら聞こえそうな静寂のなかで、動悸だけがざわついている。僅かに密度を増した空気のなか、呼吸が浅い。息を吸いこもうとすれば、鼻の奥にツンと鈍い痛みが走った。
 夢、だった。あんなにリアルに傍にいた彼は、全部ぜんぶ夢だった。さっきまでの彼はただの幻で、聞こえた声も記憶の中から引きずり出された幻聴で。そこにいたのに。触れていたのに。


「市丸……ギン…」

 名前を、呼ぶ。まるで音が呼び水になって涙腺がゆるむ。するすると。
 潤んでぼやける視界。あんなにくっきりとしていたのに、崩れてゆく夢のりんかく。水滴でインクがぼんやりと滲むように。


 頬を伝うぬるい雫が耳たぶをなでた瞬間、その感情は降ってきた。
 自分がいつもあの場所で立ち止まる理由。それが何か、分かった。分かってしまった。

 会いたかったんだ、私。もう一度彼に会いたかった。

 どくんどくん、鼓動が徐々に早まって行く。会いたかった。分かってしまったら、それしか考えられなくなって。その想いだけに埋め尽くされる。部屋を覆い尽くす、藍色の闇に心ごと飲み込まれるように。


 ――市丸、ギン。私、あの男のことが好き…かもしれない。

 現の人間ではないのに。会えるかどうかも分からないのに。会ってどうするのか、どうしたいのかも分からないのに。
 なのに、ただ会いたいと思った。一目見られればそれでいい、と。
 会いたい。まるで夜の闇の中を走り続けて立ち止まったばかりのように息が苦しい。
 苦しい。会いたいなあ。

 呼吸を整える為、ゆっくりと酸素をとりこむ。咽喉の奥が狭まって、上手く飲みこめない息を無理やり吸いこんだら、鼻の奥をまたあの匂いが撫でた。
 顔も声も姿も曖昧に霞んでいる。なのに香りの記憶だけはやけに鮮明で。きっと気のせいなのに、脳のずっと奥の方から沸き出して、匂いは私を襲う。
 その香りを感じた瞬間、嗚咽が漏れた。彼の匂い。
 布団にしっかり頭まで潜ったまま、唇を噛む。頭の中で何度もなんども彼の名前を繰り返す。

 ギン、ギン、ギン……ギン。市丸ギン。


 呼んだところでどうにもならないのに、バカみたいだ。もう会えないのなら、神様はなんでこんな記憶を残したんだろう。
 ぐすり、鼻を啜ってぎゅうっと一度眼を閉じる。明日も仕事、泣き腫らした目で出社するわけにはいかない。

「顔、洗ってこ…」

 わざと勢いを付けて布団から跳ね出し、洗面所へ向かって歩き出す。夢は夢、彼は夢の中の住人。
 闇に慣れた網膜に、室内の輪郭がぼんやりと映っている。ひとりの静かな部屋、深夜の暗闇はいつもすこしだけ優しい。


 寝起きの覚束ないあしどりで数歩あるき、廊下と室内を隔てるドアを手探りでさがしあてた瞬間、ぶわり。
 密室には不似合いなゆるい風が頬を撫でて、髪が揺れる。


「来てしもた」
「………っ!」

 やわらかい京訛りと、記憶よりもずっと濃い香りが私を包みこむ。
 温かく広い胸にすっぽりと閉じこめられて、ぐちゃぐちゃの心がするりとほどけた。



ゆめとうつつ

ほんまはボクに会いたあて泣いててんやろ?堪忍な。
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