スコール
上手く力が入らないのを隠して、そっと自分の頬に手を押し当てた。
「真子は覚えてる?」
「何をやねん」
痺れた指でふれても、かすかに頬はあたたかい。仮面を取り出す感覚をほんの一時だけ反芻して、指先からそっと力を抜く。ほんのわずかだけ高まった霊圧の名残がいつまでも頬に蟠っていた。
「あの晩のこと」
「ああ…忘れとうても忘れられへん記憶やなァ。ほんまクソ忌ま忌ましいてしゃーないわ」
自分を失う怖さを、私たちはよく知っていた。手足が自分の思い通りにならなくなってゆく感覚、少しずつじわりじわりと何者かに自分のなかみを侵食されていく感覚。
体内で自我と何かが鬩ぎ合う感覚。飲み込まれて消えて行きそうな、あの感覚は細胞のひとつひとつに刻みこまれている。ずっとずっと怖かった。
「やっぱり真子でもそうなんだ」
「あったり前やんけ、ボケ」
「最近あの頃のことをよく思い出す」
何年も何年も前のことなのに、いま思い出しても鮮明に浮かび上がる。自分が自分ではないものに変わってゆく、言葉にならない不快感。
「しゃーけど、なんでやねん今更」
「………別に」
「おかしなやっちゃなあ」
「元からそうですから。でないと真子と付き合ってないし」
「アホか、そんなん言うたら俺がおかしいみたいやんけ」
「さあ、どうでしょう」
笑ってごまかしたけれど、上手くごまかせたのかどうか自信はない。するど過ぎる彼氏を持ったのは幸か不幸か。
反らした視線の端で盗み見る。真子の顔は一瞬だけ物思う厳しさを浮かべたあとに、すうっといつもの気の抜けた空気を取り戻した。
たぶん見抜かれている。なにを悩んどんねんお前は、まあ無理には聞かへんけど――そう、言葉が聞こえた気がした。
「寝ようか」
「せやな」
黙ったまま当たり前のようにしっかりと頭を抱きしめてくれた腕、やさしく髪を撫でる指先に、癒されている。言葉にするよりももっと温かいなにかが、肌から指先から流れ込む。癒される。
そのたびに、もうこれ以上は膨らまないと思っていた愛情が、また少し膨らむ。じわじわと膨らんで、胸の奥では形をもったなにかが容積を増しているように感じる。なのに同時に、心臓のそばが真空になって大きな穴から何もかもが空っぽにこぼれおちる気もするのだ。
「ほな、おやすみ」
とじた目蓋の端に、そっと唇を押し当てられて、ふっと心が緩む。髪を撫で続ける指先のやさしさに、やっぱり全部バレているのだと確信した。
じわじわと何かが内側で浸蝕をはじめて、心の襞のいちばんやわらかいところから、私を蝕んでいる。消える。強く自分の足で立っていたはずの私が、消えて、いつかはなくなってしまいそうな気がする。その恐ろしさが、かつての記憶と重なった。
自分が失くなっていく感覚。鼓膜がぼうっと霞んで音が聞こえにくくなる。目の奥がじんじんと痛くて、よく見えない。世界が膜一枚隔てた向こう側にあるように遠くて、しかもその膜がじわじわと厚みを増していく。
触れたいものに上手く触れられなくてもどかしい。むず痒い。真子の肌に触れてみても、本当に私がさわりたいものはそのずっとずっと奥にあるもので。体温を介して伝わってくる成分は、いつも涙腺をゆるませる。
「こわい、なあ…」
「……ほんまアホやな」
「……ん」
欲しいと思えば思うほど怖くなる。その向こう側にあるものを欲しいと思えば、思うほど。怖い。掌が痺れていた、感覚がすこし失われている。
自分はちゃんとここで生きているのかがわからなくなる。いつまで真子のそばにいられるのか、彼のことしか頭に浮かばない私は本当に私として生きているのか。私のなかはいつの間にか真子でいっぱいになって、私を形作るものは殆ど真子になって、じゃあ私はどこに行ったんだろう。
自分の輪郭がぼやけてしまったような心許なさ。あの時感じた喪失感にも似た、だけど明らかにちがう焦燥。現世ボケと言われてしまえばそれまでだけれど、つまらない感情に囚われて身動きがとれなくなる。
「怖いことなんて、なんもあれへんやろ?」
抱きしめる腕に力がこもって物理的に身動きが取れなくなった瞬間、ぺしゃり、胸の奥が潰れて。自分がすこし縮んだ代わりに、涙が一気にあふれ出した。
このまま私の輪郭がぼやけて、たとえば私がなくなってしまったら、真子はどうするんだろう。私が消えても、同じように笑っているんだろうか。
「なんで?」
「そんなんも分かれへんのんかい、ボケが」
「ごめん。分からない――」
難儀なやっちゃなあ、と言いながら瞳の端から雫を啜る唇。やわらかく髪を撫で続ける指。低く名前を呼ぶその声。また涙腺はゆるむ、止め処なく降り続くスコールのように。声に水分が引き寄せられて、あふれる。あふれる、溢れ出る。
「なにが怖いって、」
「分かっとる……」
「まだ何も言ってないのに」
「お前なァ、俺ら何年一緒におった思てんねん?」
「数えられない位長く」
本当はね。自分のことよりも、あなたを失うことのほうが恐ろしい。少しずつ滲んで消えてゆく自分の輪郭を、完全に滲ませるよりも。もっと。こぼれる涙のとめどなさよりもずっと。
だけど二人でいるということは、いつかは失うかもしれない恐ろしさに耐えることだと思うから。きっとそれが、受け入れるということ。愛するって、たぶんそういうこと。
「せやろ?まあ、離せへんて」
「…………」
低い声が流れこむ。綺麗な眼差しが心をわしづかむ。背中をとんとん、叩かれるたびに、真子が囁くたびに、じわじわと自分の形が元に戻るような、不思議な気がした。
「死んでも離したれへんから安心しィ」
「…それは、ちょっと別の意味で怖い」
「しつこいでェ、俺は」
降ってくるキスを震える唇で受け止めながら、温かい涙が流れる。
たとえばこの先自分が消えるようなことがあっても、ニヤリと笑った真子の顔だけは、ずっと記憶から消したくないと思った。
スコール簡単には逃がしたれへんから…。