うさぎの溺死
どこを見つめればいいのか分からないまま無言で向かい合って、いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう。時が止まったような喫茶店の片隅でも、グラスの外側を滑り落ちる水滴は、周囲と変わらぬ時間の経過を告げる。
「元気だった?」
「おー、当たり前や」
「……」
低くてやわらかい声。直接こうして真子の声を聴くのは随分久しぶりだ。記憶の中で何度もなんども再現した音よりもずっと深くておそろしいほどやさしい響きが、一瞬で涙腺を刺激するから、返事も出来ず息を潜める。
あ、の形で止まったままの唇が、やけに物欲しげに見えるのは気のせいだろうか。かすかに湿った形良いくちびるを、視線の先で辿ってみる。輪郭のえがくなめらかなラインをゆっくりゆっくり。並びのよい歯がひどく白い。
何か言葉を発する予兆をみせ、開いていた隙間がじわじわと閉じていく。吸い込まれそうだ、と思った。ゆるく閉じたまま真一文字に引き結ばれた口の端に僅かな皺。
顔全体を見ることも出来ず、ただくちびるばかりを見つめる。あの唇がかつて、私に触れて、私を翻弄して、大好きな声で私の名を呼んだ。彼の声で呼ばれる自分の名前は、何か特別なもののように鼓膜をじわじわと溶かす気がした。
もう長い間聞いていないその響きは聴覚の奥で独りでに再現されて、自分の想像だけで泣きそうになる。鼻の奥がツンとして気取られないように少し俯いた。
「どないしてん」
「……何も」
眉間に力を入れてすぐに顔を上げたのは、短い時間しか会えない彼をしっかり記憶に刻みつけておきたかったから。変な顔になっていないだろうかとかすかに思ったけれど、そんなことに構う余裕はなかった。
「ほんでお前は、」
「………」
きゅっと角度を変える口角が網膜に絡みつく。言葉を切って細く吐き出された吐息すら見逃したくなくて口元を注視する。
キラリ、刹那の光を放つタンピアス。お前を食べたい、そう言われている気がして背筋をぞくりとするものが這いあがった。
「元気しとったんか?」
「……ん」
それだけ。たったそれだけ話したら、もう話すべきことなんてなくなってしまった。1時間のあいだにあれも言いたいこれも聞こうと思っていたのに、姿が眼に映った瞬間に言葉なんてどこかへ飛んで行った。最初から何も言う必要はなかったのかもしれない。
「そーか、そらよかった」
元カレで同僚でもあった真子が海外支社へ赴任して早数年。今の彼と私はただの同期だ。過去に付き合ったことがある、というだけの。それでも短いトランジットの時間を私と会うためだけに割いてくれる程度には近しい同期。
真子が何を思って今日声をかけてきたのかは分からない。気まぐれか、意図があるのか。何にも分からないくせにわざわざ半休をとってここへ来ている自分の気持ちはもっと分からなかった。でも、彼からの久しぶりのメールを見て素直に会いたい、と思った。それだけのこと。
「喉、渇けへんか」
「渇いた」
姿勢を少し変えれば膝頭がぶつかりそうで、数センチの隙間を介してぬるい温度が伝わる。触れている訳でもないのに、その熱が自分の奥底に潜んでいた気持ちを引きずり出す。
会いたかった。本当はずっと会いたかった。会いたくて堪らなくて、知らぬうちに真子に焦がれていた。ただの同期以上の感情を自分はずっと抱いていたのだ、と。
「何にすんねん?しゃーないから俺が奢ったるわ」
「コーヒー」
久しぶりに手の届く距離に真子の顔がある。ニヤリと不敵に持ち上がるくちびる、シャープな頬のライン、真夏なのに涼しげな琥珀の瞳。それを縁取る細いフレームの眼鏡は見慣れない。私の知らないものを身につけていることが、二人の離れていた期間を視覚的に物語る。
「エスプレッソでええんか」
「…うん」
別れて数年経つのに、好みを覚えていてくれた事が嬉しい。真子はいい加減に見えて、さりげなくそういう努力を怠らない男だ。狡い。
「変わってへんなぁ」
「まあね」
緩めたネクタイの奥、なめらかな肌が見える。わずかに突き出した喉仏の下にちらりと覗く鎖骨。
すぐそこに顔がある。真子がいる。それを見ているだけで、胸の中がいっぱいになる。それを意識するだけで、息が止まりそうになる。
「ほな、エスプレッソふたつ」
暇そうな店員に向かって指を二本立てた仕草。神経質そうな細く長い指に見惚れる。注文をする何気ない声にすら聞き惚れる。真子が喋るたび唇の隙間をちらちらするタンピアスに視線が翻弄される。あの感触を思い出した肌が毛羽立っている。肌の下では細胞がざわざわと騒ぎはじめる。
馬鹿みたいだ。彼氏と彼女の関係でもないのに私は一体何を考えているんだろう。何を望んでいるんだろう。急に恥ずかしくなって俯いたら、上から店員の無感情な声が降ってきた。
「お待たせ致しました」
「おおきに」
湯気を立てるエスプレッソのカップに釣られて顔を上げれば、眼鏡の奥から真子の瞳がこちらを見ている。視線が交わった瞬間にすうっと眇められた琥珀に、捕まって眼をはなせない。
まばたきをするのも忘れて、数十秒。見つめ合っている時間に比例して鼓動が早まってゆく。薄色の長い睫毛がふるえて、そのたびに息を飲む。呼吸は勝手に浅くなった。
「飲まへんのか」
「……ん」
「せや、お前猫舌やったなあ」
そう言ってまた真子が瞳をやわらかく眇めるから、まるで愛しいものを見つめるみたいな優しい表情を浮かべるから、返事なんて出来なくなる。唇を結んだまま無言で頷いて、ぬるくなりかけた水をひとくち口に含んだ。
「まったく…お前は子供か」
「うるさい」
茶化す口ぶりで楽しげに笑う真子に併せて、さらさらの金髪が揺れている。相変わらずきれいに切り揃えられた前髪を見たら、手を伸ばして触れたくなった。そのやわらかさを指先で確かめたい。確かめる立場でも状況でもないのに。
今日を逃せばまた何年会えないのかも分からないのだ、と思ったら鳩尾の内側がぎゅうぎゅう絞られるように苦しくて。だけど私は真子の"何"でもないのだ。目の前で笑っている男のただの同僚。ちょっと親しいだけの同僚にすぎない。
無理に真子に合わせて笑顔を作ろうとしたら急に笑い声が止まった。カップを持ち上げるそぶりも見せず、真子はいつになく真面目な表情を浮かべている。投げ出された右手がテーブルの上で存在感を放つ。
「………」
「………」
口を開いてはいけない気がして黙って端正な顔を見つめ返す。膝の上で両手はしっとりと汗ばんでいた。真子のきれいな双眸はしっかり私を捕らえたまま、時折まばたきをする以外はまったく動かない。その眼に縫われたように、私も動けなかった。
レンズ越しの視線は私を見ているのか、それとももっと奥に潜む私の本心を見ているのか、余りに真っ直ぐに射抜かれて心が震える。
今にもため息がこぼれそうで、自然にくちびるが薄く開くのを止められない。眉間にシワを浮かべ眼を細めた私は、どんな顔に見えているのだろう。そんな私を見て小さく息を吐き出すと、真子は切なげに眉を顰めた。
途端に艶っぽさを増した表情に心臓を掴まれる。漏れるため息は止められず、かすかに空気を揺らす。テーブルの上、真子の長い指がぴくりと動いた。
少しだけ膝を進めた彼と、テーブルの下で脚が触れる。布越しの体温を感じたまま、身動きもせずに見つめ合う。いくら見ていても飽きない、と思った。
いったいあれからどれくらい経ったのだろう。エスプレッソはもうすっかり冷めているのに、二人とも口を付けぬまま。言葉もなく、ただ黙って見つめ合っているだけ。じりじりと減っていく残り時間が頭の中を回っている。
あとどれだけ一緒にいれるのだろう、時計を見る気にもなれずに唇を噛み締める。触れ合った膝頭から伝わる熱は全身に染み込んで、鈍く身体の芯が疼いている。真子の熱を帯びた眼が、無言のまま胸を掻き乱す。
限界というのがあるのだとしたら、そんなものはとっくに超えていた。本当はいますぐにでも奪われてしまいたかったから。力ずくで、無理矢理に。
黙って目の前の男がテーブルの上に投げ出した指先を見ながら、考えていたことはさっきからずっと一つだけ。真子が後先だとか体面だとか二人の関係だとかは考えずに、今すぐなにもかも奪い去ってくれればいいのに。その手で触れて、その腕で抱きしめて欲しかった。そのくちびるに塞がれたかった。
全身に回った熱が喉を灼いて、うまく声が出ない。名前すら呼べないのがもどかしい。きっと今名前を呼んだら、胸の奥で煮詰まって甘く凝った想いが一気に溢れ出してしまうと分かっているのに。なのに、もう一瞬も我慢出来ない気がした。
吐き出さないと壊れてしまいそうで、飽和寸前の危ういバランスが苦しくてくるしくて。嗄れた喉から声を搾り出そうとしたら、ぐいと強引に脚を絡めとられた。
「しん じ」
「……っ!」
つよい接触感に肩が揺れて。思わず名前を呼んだら、まるで啼き疲れて掠れたような声が出る。それを合図に腕を取られて、無理矢理立ち上がらされていた。
「…な に?」
「黙ってついて来たええねん」
やっと視線の端で捉えた時計、残り時間はあと10分――
驚くほど強い力でぐいぐい引っ張られる手首に鈍い痛みが走る。欲しがっているのは私だけじゃないと、そういうことだろうか。
皮膚の表面から染み込む熱がじわり、胸の芯を溶かす。溶けてゆく。溶けていた、とっくに。その眼に捉えられた瞬間から溶けはじめていた。
「ちょ、痛…」
「わるいなぁ」
謝罪とは裏腹にさらに力がこもる指先は、しっかり肌に食い込む。痛い、でも離さないでほしかった。
連れ込まれた人気のないトイレの個室で、鍵をかけるのももどかしげに壁に押し付けられたら、背中に走る衝撃よりも目の前の男の顔に心臓を撃ち抜かれる。
苦しくて堪らないような歪んだ表情、こんなに切なげな真子を見たのは初めてだ。私が、こんな顔をさせているのだろうか。
「真子?」
「俺もう、余裕あれへんわ」
「……っ」
「お前のせいやで」
何が、なんて聞き返す暇もなく乱暴に口を塞がれる。そのまま息も出来ず、角度を変えて何度もなんどもくちびるを啄まれて、頭の芯が痺れた。絡め取られる舌に、ひやりと金属の感触。
「後先逆になってスマン」
「………」
「しゃーけど、あんな顔見せるんは反則や。あんな声で名前呼ぶんも反則」
カチャカチャとベルトを外す音も真子の言葉も、半分くらいしか聞こえない。服越しに這い纏わる指と、唾液の混ざり合う音が意識を混濁させて、浅い吐息だけを漏らす。
「寄り、戻してくれへんか」
「……っ」
ジッパーの下りる音、太腿を這う指先がますます頭を混乱させる。視線で溶けた身体は感覚が研ぎ澄まされて、ぐいと膝裏を持ち上げられただけで情けないほどに力が抜ける。何を言われているのかも分からないまま、真子の首筋に縋り付く。
「拒否の返事やったら、」
「…しん…じ」
「聞いたるつもりないけどなぁ」
なのに腰を引き寄せられ、耳元で呼ばれた自分の名前だけは、やけにはっきりと私の中に染み込んだ。世界で一番愛おしげな響き、眼鏡の奥の氾濫した瞳、髪の毛を梳くなめらかな指先。
「今は大人しゅう俺に抱かれとけ」
うさぎの溺死繋がった瞬間に、死んだのです。