通夜


 そうやって誰にでも媚びる人肌がほんとうは心底うらめしいよ――

通夜



 深夜には不思議な空気が流れる。草木が寝静まり世界が沈黙に支配されると、まるで人恋しさの菌にでも感染したように、自分の内側が浸蝕され胸がぎゅうぎゅう締め付けられることがあるのだ。特にこんな夜は。

 ――今日、私は失恋した…。

「お酒飲んだら、少しくらい気分変わるかな…」

 浴びるほどお酒を飲んで、飲んで飲んで、酔い潰れて記憶がなくなるほどめちゃくちゃに飲んで。恋が死んだことを悼むように飲み明かして。這いながらベッドへ潜り込んだのは数時間前のこと。
 目が覚めたら窓からはきれいな朝陽がさしこんでいた。どんよりとした私の気分を逆撫でしそうな爽やかな朝。一瞬頭に浮かんだ「逆撫で」という単語にすら気分を引きずり落とされる。なんでよりによって今思い浮かぶのがあいつの斬魄刀の名と同じ文字列なんだろう。誰に当たることも出来ず、心のなかでとびっきり苦い苦虫を噛み潰す。

 ――世界は昨日までとなにもかわらない。なんにも。

 昨日までとおなじように太陽は昇るし、眩しいほどの陽射しと身体を焦がされそうな熱に目眩がする。たかが女がひとり振られた、それだけのこと。たったそれだけのことでは、なにかを動かすほどの力なんてなくて。結果、世界はちっとも変わらないまま。
 せいぜい変わったのは私の世界観くらいなもの。取り残されているのは自分だけで、その周りでは昨日までと同じように何の変哲もない日常が続いていくのだ。

「ばかみたい…」

 いくら酔ったって忘れられる訳がないと本当は最初から分かっていた。忘れたいと思うこと自体が、忘れられずにいることの何よりの証明で。忘れたいと思っている限り、人はその呪縛から逃れられない。
 二日酔いのせいか、それとも泣きすぎたせいか、頭が割れるように痛かった。頭蓋骨がめりめりと音をたてて破壊されそうな痛みに堪え、こめかみで暴れる血液を揉みほぐす。
 耳の奥で「しゃーからあんま飲み過ぎんな言うとるやんけ」と投げやりに呟く真子の声が聞こえて、こんなになっても私は真子なんだと、余計に苦しくて堪らなくなる。

「うるさい、バカ真子」

 鼓膜の奥で直接再生され続ける真子の声に悪態をつく。残ったのは深酒しすぎたせいでよりくっきりと刻まれてしまった記憶と、泣き腫らして重たい瞼と、二日酔いのどうしようもない気分の悪さだけ。

「ホントに、ばかみたい」

 同じ台詞を繰り返し呟きながら、全部夢だったらよいのに、と思った。あやふやな記憶がやがて薄れて、ぼんやりした感情の断片だけ残してきえる夢。内側にはなにも根付かずあっさりきえる夢。そんなふうにあの光景もあの声も私の中からきえればいいのに。忘れてしまえれば。そう思ったけれどやっぱりあれは夢ではなくて。

「胸が、いたい」

 二日酔いのせいではなく、吐き気がする。おそろしい頭痛よりももっともっと胸が痛くて。いたくて。
 あれは夢でなんて到底済まされない、痛くて苦しくて堪らなくなるほど鮮明な、いくら藻掻いても逃げられない現実なのだった。





 ギャップにはもともと弱いほうだ。期待が鮮やかに裏切られる瞬間に、心をするりと掬われる。いい意味でしか使ったことのなかったその言葉が、悪い意味にもなりうるのだと知ったのは、彼のせい。

「おー、俺も大好きやで」
「ホントですか?」
「ほんまに決まっとるやろ?可愛ええ女の子はみんな好きや」

 会話を聞いたのは偶然。でも声を聞いた瞬間に思わず身を隠して、霊圧を押し込めたのは意識的な行動だった。

 ――真子…

 忙しいとの理由で、全く顔を合わせていなかった彼の声。物陰からのぞき見れば、可愛らしい女の子を今まさに抱きしめている最中の彼が目に入り、心臓を握り潰される気がした。
 見なければ良かった。でも、見てしまった。一度目にしてしまったら抉られた傷は簡単には癒えない。
 それにしても、真子はあんなに軽々しい男だっただろうか。疑念を抱いた瞬間に、ほんの一時だけ真子の視線がこちらへ注がれたような気がした。

「平子隊長、口が上手いんだから」
「嘘はついてへんで」
「でも、付き合ってる彼女がいらっしゃいましたよね?」
「あー…自分んなもん一々気にする子ォやないやろ?」

 なにを今さらええ子ぶっとんねん。ニヤニヤと緩んだ顔を女の子に近付けて、真子がなにかを囁いている。声は耳に届かないのに耳をすまし、見たくないのに目を凝らす。
 なぜ私はここで、自分の傷つく行為を続けているんだろう。さっさと立ち去ってしまえば傷も浅いままですむのに。見なければ、その事実はなかったことと同じになるのに。

「まあ…私は隊長に優しくして貰えれば嬉しいですけど」
「せやろ?ほなええやん」

 なんなのだろう、これは。忙しいという彼の言葉を信じて我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して、寂しい想いを押し込めてひとりで泣いた夜は全部無駄だったんだろうか。
 互いの頬に慣れた様子でキスを落とす二人は綺麗で。目の前でつづく甘ったるい光景が涙で霞んで見えなくなる。私は、彼のことを誤解していた?
 こんなふうに傷つけるくらいなら、最初から優しくしないで欲しかった。特別扱いですっかりその気にさせておいて、その後こんな風に放置するくらいなら、最初からその腕を私の方へ向けないでほしかった。
 何日も何日も音沙汰がないのは忙しいからなのだと思わせておいて欲しかった。せめて、飽きたのだとはっきり言葉にしてほしかった。私は一体彼の何だろう。

「焦らさんと、はよおいでや」
「平子隊長のせっかち」

 媚びを浮かべ親しげに肩を抱き合って立ち去る二人の姿を見つめながら、内にある平子真子像ががらがらと音を立てて崩れ落ちる。彼は女の子誰もに優しいけれど、踏み越えてはいけない一線は越えずにさらりとかわすタイプだと思っていた。無駄に人を傷付けることはしない男だと。こんなギャップなら、一生知りたくなかったのに。
 だけど。
 勝手に自分の中で虚像をつくっておいて、それを裏切られたからと勝手に傷付いているのは自分だ。そもそもの私の認識が間違っていただけのこと。だったら騙されたままでいればよかったのに。
 でも今見えている真子は、本当に本当の真子だろうか。確信は持てない。

 口内に微かな鉄の味がして、やっと自分が切れるほどぎゅうっと唇を噛み締めていたことに気がついた。

「真子のばか。ばか、ばか…」

 少しでもすっきりしたくて口走ったはずなのに、ばかと罵るたびに、逆に好きだと思い知らされる。

「迷惑ならハッキリ言えばいいのに」

 だったら諦めるのに。死んでしまえ下種野郎。いくら蔑みの言葉を吐いても嫌いになんてなれなくて、どこかでまだ信じている。だから目にした現実との折り合いをつけられなくて、どうしたらいいのか分からなくなる。

「………ばか」

 あの壊れ物を扱うように優しく抱いてくれた腕は贋物だったんだろうか。愛おしげに眇めて見下ろす瞳は嘘だったんだろうか。慈しむように髪を梳く仕草も、名前を呼ぶおそろしく優しい声も、全部ぜんぶ演技だった? ―― とてもそうは思えなくて。第一そんなことをする理由が見当たらない。
 だとしたら。いつの間にか彼の中での位置づけが変わっていたのかもしれない。不要な女に。胸がいたい。痛くて肺の中にうまく空気を吸い込めない。痛くて痛くて、このまま心臓が機能を停止してしまうんじゃないかと思った。

 そんな全てを忘れたくてお酒を飲んだ挙げ句、今朝のような羽目に陥っている。超絶級の二日酔いに、泣き腫らした不細工な顔。
 自分のことは自分で責任をとる主義だから、こんな理由で任務は休まない。いつも通り八番隊舎へ向かえば、あっさり京楽隊長に見抜かれて(顔を見れば一目瞭然)、早々に自室へと追い返された。
 一人で部屋にいても、考えるのは同じことばかり。いっそ仕事で気を紛らわすほうが楽なのに。

「京楽隊長もお節介だよね…」

 魂が抜け落ちてしまいそうな深いふかいため息を吐き出して、何度も反芻した問いを繰り返す。理由や過程は分からないけれど答えはおんなじ。
 私は真子に振られた。
 目の前であんなふうに別の女を口説くところを見せつけられて、それでも気づかないほどバカじゃない。
 あの場で見つからないよう極限まで抑えた霊圧だって、真子ほどの隊長クラスなら感じ取れないはずはない。確信犯、ということだろうか。

「真子…」

 明日からは馴れ馴れしく真子なんて呼ばずに、以前のように平子隊長って呼ぶべきなんだろうな。そう思ったら、開いてしまった距離をまざまざとリアルに感じて、泣きすぎて涸れたと思っていた涙がまた溢れ出す。泣いて事態が変わるなら、いくらでも泣いてやるのに。

「バカバカしい」

 吐き捨てるように言って、ギュッと目を閉じた。目蓋の裏に浮かぶ残像を振り払い薙ぎ倒して、必死で寝ようと努力する。事態が変わらないのなら、忘れるしかない。時間と安らかな睡眠が一番有効だと思った。


 やっとのことで うとうと 微睡みかけた頃、いま一番逢いたくなかった人物の霊圧がじわじわと着実に近づいてくるのに気がついて、すぐさま消えたくなる。


「しん……平子隊長」
「なんやねんその他人行儀な呼び方は。真子て呼んどったやんけ」
「三週間前までは、ね」

 精一杯の皮肉をこぼしながら、久しぶりに間近で見た真子の姿に胸がいっぱいになる。言葉なんて出てこなくなる。
 言葉が、出て来ない。本気で好きであればあるほど、軽々しく好きだと口にできない。好きなんて言葉ではとても足りない、言葉にすると自分の内側の感情まで嘘くさく見えてくる。愛の言葉とはそういうものだということをやっと思い出す。

「なんや二日酔いらしいのう」
「……ん」

 彼が軽々しく可愛いとか大好きと口走るのは、それが本気でない何よりの証拠で。

「しゃーからいっつも飲み過ぎんなて言うてるやろ。アホやなァ」

 いま聞こえた「アホやなァ」の語尾に滲むあたたかさが、好きと何度繰り返し言われるよりもずっと嬉しいことを思い出す。

「誰のせいだと?」
「………堪忍。俺やな」

 本当の彼は簡単に「好き」と言わないとか、ふらふら別の女に靡いても決して自分以外の女性と唇を重ねないとか。そんなちっぽけないくつかの事実が、なによりも大切な真実なのだと思い知るのだ。毎回。
 ぽすん。真子の大きな手の平が頭をくしゃくしゃと撫で回す。指先の体温がごめんなと告げていた。


「アホやなァお前も、誤解や誤解」
「………」
「あれな瀞霊廷に謀反の疑いアリ言ういわくつきの女死神やで」

 あないな可愛ええ顔して、ほんま女言うんは怖いなァ。茶化す言葉とは裏腹な優しい指が髪を梳く。

「へ…?」
「訳あって夜一の姉ちゃんに頼まれて渋々協力したっただけやんけ」

 内偵っちゅうやっちゃ。そこまで喋ると真子は一旦言葉を切って、寝転んだままの私の前髪を掻きあげると額にキスをひとつ。

「極秘裡に進めとったからお前にも言われへんでスマン」

 ほんま人使い荒過ぎて命削れるっちゅうねん、3週間殆どフル稼動やで。言いながらするりと隣に滑りこむ身体を止めることも出来なかった。

「お疲れさま…」
「おー。しゃーけど昨日はお前の霊圧感じたから、ほんま焦ったわ」

 ぎりぎり取り押さえれるかどうかっちゅう局面やったからなァ。伸びてきた腕がそっと身体を包み込む。久しぶりの真子の匂いがした。

「お前の姿見た途端、思わず霊圧乱れてもうてん」
「なん で…」
「そら、会いたあて禁断症状出てた当人が目の前に現れたからに決まっとる」
「……っ!」

 しゃーけど相手に気付かれる訳にいかんし、胸糞悪い芝居は続けなアカンし。そう言って真子は首筋にそっと顔を埋める。

「おまけに、あんな顔させてもた」
「……真子…」

 いつになくしおらしく見えたのはそこまで。気が付いたら鮮やかに体勢は入れ代わり、両手を顔の横に固定されたまま真子に覆い隠さられていた。

「妬いてんか?」
「…妬いて…ない」
「ほんまかァ?素直になりや」
「……………妬いた。けど、」
「んー?」
「仕方のないことだとも思った」

 誤解とは言え、こっちは散々苦しんで泣いて泣いて忘れようとしたのに、にやにやと私を見下ろす顔が悔しくて。精一杯力を込めて睨みつける。でも、それが間違いだと気付いたのは3秒後。

「可愛ええやっちゃなあ」

 すいっと顔を近付けた真子に至近距離でそう言われて、睨みつけていた視線がかちりとぶつかって。琥珀の瞳にまっすぐ見据えられたら身体中から力が抜けた。

「ほんま俺をどないする気やねん」

 ぐいと腰を抱かれ、胸と胸がぴったり密着して。どうにかなりそうなのは私の方だと思った。そのまま吸い寄せられるように唇を合わせる。一度触れて、そっと離して。視線を絡めて。

「寂しい想いさして堪忍。しゃーけどお互いさまやねんで」
「しん…じ」

 見つめ合ったままもう一度唇を重ねて。それからは何かに突き動かされるように何度も、会えなかった時を埋めるように何度も、なんども。角度を変えて乱暴にやさしく貪るように続く口づけで、さっきまで抱いていた不快感も不安も寂しさもすっかり溶かされてきえてしまう。

「誤解とけたやろ?」
「ん。一応」
「ほんなら今夜は、絶対逃がしたれへんで」

 にやりと口角を上げた不敵な表情が私を見つめる。その途端に身体のなかがカッと熱を上げた。

「……っ!」
「もういやや言うまで抱かしてや」

 ばか…。口に出来なかった言葉ごと唇を奪われて、切なげに歪んだ顔に見据えられれば、どうせ抵抗なんて一切できなくなるのだ。いつも。

「ほんま我慢の限界すぎて死んでまいそうや。俺…」

 ――かすかな布擦れの音と唇の重なる水音に混じり、低い声が愛おしげに私の名を呼んだ。


通夜
ほんとうにしぬのは私――
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