涙腺緩過ぎちゃうんか

寝不足でぼんやりする頭のまま洗面台の前に立ち、真子に貰ったネックレスを着けようとしたら手を滑らせて排水溝の中にそれを落とした。咄嗟に手を伸ばしたけれどとても間に合わなくて、己の反射神経を本気で呪いたくなるのと同時に思わず大きな声が出ていた。

「!……嘘っ!?」

キラキラ光るその欠片はまるで生き物のようにうねりながら指先を掠めて去ってゆく。小さな金属片が、さっきまで手の中で感じていたよりもずっと自分にとって大切なものだったのだと気付いた時にはとっくに見えない所に沈んでいた。


その日はとても大事な日だった。自分の運命を左右するとある一大イベントの朝なのに、そんな些細な出来事であっさりと自分の中の重要度が書き変わる。
その瞬間の私にとっては数時間後に控えた問題のイベントよりも、真子に貰った小さな物体の方が大切だとしか思えなくて、絶望を乗せた冷たい電流のようなものが背筋を走りおりた。

――落ち着け、おちつけ私。洗面台の排水溝の形状を思い出せ。奴らには必ずトラップがあって、水が真っ直ぐ下には落ちて行かない構造になっているはず。

「落ち着け、まだ間に合うから…」

勢いよく水を流さない限りまだ大丈夫。ネックレスは床から十数センチの位置。トラップに捕まったまま、手が届きそうで届かないけれど決して遠くはない場所に留まっている。だから落ち着け…――

三度深呼吸をして、まずは誤って水を流さないように栓をすると洗面台の下の扉を開ける。まだ寝ている真子を起こさないように慎重に、ゆっくり。
ごちゃごちゃと放り込まれた雑多な物たちを一つ一つ取り出して、トラップのナットを緩めさえすればいい。そこにあの子は引っ掛かって、私を待っているはずだ。大丈夫、落ち着いて。

もう一度深呼吸をして、物たちの後ろからやっと現れた継ぎ目に力を加える。時計回り、方向を間違えずに回転させれば必ず外れるから。


「…っ!な、なにこれカタッ」

なのに、何度試しても、どんなに渾身の力を込めても、白いそのパイプは私を嘲笑うようにびくともしない。まったく。
なんで私こんなに非力なんだろう。

「もう一度……痛っ」

びくともしない無機物の代わりに私の指先が赤く傷付いてゆく。触れている樹脂の向こう、僅か数ミリの膜を隔てた場所にはきっとあの子がいるのに。

「なんで?バカ…こいつのバカ、私のバカ…なんで。動け、うごけ!」

泣きそうになりながら格闘して数分間、家を出なくてはならない時間がじりじりと迫ってくる。やっぱり指先の物体はぴくりとも動かなくて、だけど簡単に諦める訳にはいかなくて。だってあの子は真子に貰った大切な…――

多分このまま放って家を出たら、数時間後、何も知らない真子がぼんやり起きてきて気合いの抜けた顔を洗う際に呆気なく押し流してしまうに違いない。そうなれば、あの子とは二度と会えなくなる。

なんで先に栓をしておかなかったの、なんで私手を滑らせたの、なんで私こんなぼんやりしてるの、なんで寝不足なの、なんで時間は容赦なく迫ってくるの、なんで私は非力なの、なんで、どうして。

「なん…で」

泣いても仕方がないのは分かっているのに、自分がどうしようもなく愚かに思えて、世界中が全部意地悪に見えて、途方に暮れる。壁に寄り掛かったまま重力に任せてずるずると冷たい床に座り込んだら、大きなため息が漏れた。


「何やっとんねん。もう行かなアカン時間ちゃうんか?」
「……しんじ!?」

他に誰がおんねん、と言いながら頭をポンと叩かれる。真子の手の平はいつも温かいけれど、寝起きは特にそう感じる。
その温かさが切なくて、この手が与えてくれたものを呆気なく手放すしか出来なかったのが申し訳なくて、余計泣きそうになる。

昨夜も残業で遅かった彼が目を覚ますはずはないと思っていた。おまけにいつもよりずっと早い休日の朝なのだ。

「朝早うからごそごそ五月蝿いやっちゃなあ、どないしてん」
「………落とした」
「は?」
「貰ったネックレス着けて行こうと思って落としました」

ダイヤの、プラチナの。言葉を続けて鼻を啜る。涙目なんかで見上げたら、きっと罵声が飛んで来ると思った。せっかく俺が買うたったのに何やってんねんアホか あれ 高かってんぞ、とか何とか言われると思った。全部私の不注意のせいなのだから怒られても仕方ないと思った。なのに、降ってきたのは呆れたようなため息と、寝ぼけた優しい顔だけだった。
起きたばかりなのに寝癖のひとつも見つからないさらっさらの金髪おかっぱヘアが羨ましいなあと、今の緊迫した状況とは全然関係ないことを考えてしまうくらい、緩い空気を纏ったいつもの真子がそこにいた。

「ちょお、そこ退けや」
「はい」

がに股で怠そうにしゃがみ込んだ真子の長い指が、さっきまで私のしていたのと同じように白い樹脂パイプに触れる。

「どっち回しや……てか、なんで俺が寝起きにこんなことせなアカンねん、俺はどこぞの水道屋の職人か!?」
「ごめん、なさい」
「ほんで準備は出来てんか」
「ネックレス着けたら終わり、のはずだった」
「ほんま鈍臭いやっちゃなあ」
「返す言葉もありません」

私がどんなに頑張ってもびくともしなかったそれは、真子の手にかかればあっという間に外れて、数十秒後には見覚えのあるキラキラが私の手のなかに納まっていた。


「……ありがとう ございま、」
「さっさとそれ着けて行ってこい」
「 は…い…… 」

まだ呆然としている私を面倒臭そうに見上げる彼の目元は優しい。にぃっと歪んだ唇の隙間からタンピアスがキラリ、光った。寝起きの姿も腹が立つ位格好いいなんて神様は不公平だ。

「着けたれへんで?俺めっちゃ眠いねんから」
「分かってます」
「ほな、はよせえ。遅刻すんで」
「片付け…」
「アホか!めっちゃ優しい俺様が後は全部やっといたる言うてんねん。お前は自分の目の前のことだけ考えとったらええねや、ハゲ」
「ありが…と」

素直にお礼を言えば、真子の口端が更ににぃっと持ち上がる。不敵な表情に、タンピアスの無機質な光がよく似合っている。

「貸し、一つな」
「へ?」
「当たり前やんけ。眠たァて堪らんとこ無理矢理叩き起こされて、面倒臭い水道屋の真似事させられた上にお抱え家政婦みたァにご丁寧に後片付けまでしたんねんから」
「………」

寝起きとは思えない流暢さでつらつらと憎たらしい言葉を紡ぎながら、真子の手で次々に散乱していたものが仕舞われてゆく。

「とにかくええからさっさと行けっちゅうてんねん、鈍臭子チャン」
「なんかそれイヤ」
「ほんまのことやろ、ボケ!」

ベシーッと盛大な音を立てて叩かれた背中が痛くて、思わずぐすりと鼻を啜る。

「何を泣いとんねん、全っ然かわいないぞ この超鈍臭子チャンめが」
「泣いてません!」

だけど、一瞬触れて離れたその手の平はびっくりするほど温かくて、洗面台に向かう少し丸まった背中は例えようもなく優しくて。鏡越しに私を見つめる薄く眇められた瞳は、吸い込まれそうにやわらかい。
それだけで今日一日、どんなことでも出来そうな気がした。


涙腺緩過ぎちゃうんか
あんな涙目見せられたら眠たいのンなんてどっか飛んでったわアホ
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2010.11.28
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