見境ないんやね
いつの間に皆は消えたのだろう、気が付けば市丸隊長とふたりきりで夜のなかに取り残されていた。さっきまでの喧騒が嘘のように静かな月夜、真っ白な猫が足元を横切って路地裏に消える。かすかに目眩がした。
「もう一軒行こ」返事をする前に肩を抱かれる。食い込む指の感触にぷつぷつと泡立つ肌をアルコールのせいにして「飲み過ぎですよ」と諭せば、間髪入れずに否定された。
お酒を飲めば誰しも多少気が大きくなって普段なら言いもしないことを口走るもの。それは良く知っている。社交辞令がいつもより甘みを帯びたり、スキンシップが度を越えたり。無礼講という言葉に気が大きくなったり、つい心の箍がゆるんだり。
「なあ、もう一軒だけ」
「……でも」
「もうちょっとだけボクと付き合うて」
だから今日の彼の言動は、そういうものだと思った。いつもは笑顔の外側に見えないフィルターを一枚纏っている隊長が、身近にみえたのも。手をのばせば届きそうに思えるのもお酒のせい。期待しちゃいけない。たまたま彼がそんな気分になったときにたまたま近くに居たのが私だったというだけ。それだけ。
「あかん?」
「………う」
「なあ、」
なのに、必死で言い聞かせている傍から耳元に柔らかい声が降ってくる。かすかに鼻にかかったまろやかな訛り。耳の奥で音が溶けている。
私は市丸隊長のその声に弱い。
「おいで」
八割方陥落しかけて、理性と打算と欲望がないまぜになった視線でそっと隊長を見上げる。少年のように首を傾げる男の銀髪を背後の月が青白く照らしている。うっとりするほど綺麗だった。
同時にアルコール混じりのいい香りが鼻を掠め、自分がどんな顔をしているかなんて考える余裕がなくなった。
「ボクとこな、」
「………はい」
「いま猫いてんねん」
その言葉を最後に黙り込んだ彼が、読めない笑みを浮かべたままそっと手を差し延べる。猫がいる。それが一体なんだと言うんだろう。小さな生き物は好きでも嫌いでもない。猫がいる。だから部屋においで、と?意味がわからない。分からないから口の中で隊長の言葉を繰り返してみる。
――ボクとこな、いま猫いてんねん。
隊長だけを頼って隊長だけに庇護されて生きている小さな生き物。いつも一人で彼を待ち、彼の膝の上で喉を鳴らして甘える生き物。小さきものを気まぐれに甘やかす彼。そんなビジョンが浮かんだら、もう抵抗する気はなくなっていた。
無意識で掌を彼に委ねる。その時点から万事は彼のペースだった。
「あの…」
「…なん?」
「何処へ」
分かりきった問いを零した私の唇を細い指先がそっと撫でて離れる。嘘臭い笑顔を張り付けたまま、隊長はやわらかい笑いを漏らす。月がその後ろでつめたく冴えていた。
「どうぞ」
開かれた扉の向こう、ほとんど物のない無機質な空間が広がっている。色素の薄い立方体のなかにすとんと腰を降ろした隊長をみて、この部屋はこの男のためだけの部屋だと思った。
「で、どこに居るんですか」
「何が?」
「猫 です」
周囲を見渡してみたけれど、彼以外の生き物の気配はない。私を除いて。
「いてるやないの」
「見え ません… 」
「見えへんの?」
「……はい」
「簡単に愛想振り撒くタチの悪い子」
またすらりと長い指が伸びてきて条件反射で手の平を預ける。私のいる場所からは見えないけれど彼の座っている所からは見えているのかもしれない。
「雌ですか?」
「せや。ボク以外にも可愛ええ顔ばっかり見せてどうしようもない子ォなんや」
「………」
聞いた後で雄だったらよかったのに、と思った。その指が撫でるやわらかな体毛は、せめて雄猫のものであれば。馬鹿馬鹿しい嫉妬。浮かんだ自分の考えにこっそり自嘲をもらす。
「そのくせボクにだけ甘えた声で鳴いて、たまに縋るような目ェ見せて」
「……猫は気まぐれですから」
「お仕置きされたいんやろか」
「さあ…」
引き寄せられるまま身体を委ねればすっぽりと腕に包まれる。しなやかな胸板の感触。三秒後には隊長の膝の上にいた。そこからならば見えると思っていた猫はまだ見えないけれど、ほんとうはもう大して見たくもない。むしろ見たくなくなっている。
「ほんまにボク翻弄するんも大概にして欲しいわ」
「隊長を翻弄するなんてかなり小悪魔な猫チャンなんだ…」
「せやろ」
肩にこつんと顎の感触。そっと振り返ると見たこともないくらいやわらかく緩んだ隊長の顔。猫に見せる彼の顔はいつもこうなのだろうか。思った瞬間に胸がぎゅうっと詰まる。
「お好き…なんですね」
「どうしようもないくらいな」
両腕の締め付けの中で、視線を泳がせる。ゆるく抱きしめられているだけなのに窒息しそうだ。隊長にそんな風に愛でられる猫が羨ましくて、うらやましくて。息が苦しい。
「猫、どこ……」
私、猫になりたい。隊長にそんな顔をさせられる存在に。猫に、なりたい。
ふうっ、と吐き出された甘ったるい男のため息が耳たぶを撫でて。アルコールと隊長の匂いが私から現実感を奪う。
猫になりたい。あなたに抱き上げられて、甘えた声で鳴きたい。実現の可能性ゼロの願望は冷静に考えれば馬鹿げているけれど、こうして乗せられた膝の上はただ気持ちが良いから。隊長がそんなふうにやさしく抱きしめるから。だから、猫になりたい。理由もなく身体の表面を撫でられてそれが当たり前な存在に、なりたい。
「どこ て、ボクの膝の上やけど」
「……え?」
疑問符を掻き消すように肩を押され強引に押し倒された畳の上で、私はちいさく啼く。心臓の奥でなにかが潰れる。両手をしっかりと縫われ、体温が降ってくる。
「今はボクの下」
「市丸、隊長……」
「誰にでもええ顔見せる可愛いくて憎たらしい子」
「っ!」
傾きながら近づいてくる唇があまりに綺麗で眼を見開く。目の前で歪む眉に息を飲む。苦しげな顔にため息が漏れる。逃げる気なんてないのに、逃げ出したくなる。
「ボク試すんもええ加減にしてやァ」
これ以上近付けば焦点がぼやけてしまいそうな位置で、隊長の双眸は真っすぐ私を捉える。頭がくらくらする。耐え切れず顔を背けようとしたら、簡単に顎を掬われる。
「やーっと捕まえた…」
「………たいちょ、」
いつもより低い声が私の名を呼ぶ。それだけでもうだめ、動けない。逃げられない。
「酔うてるからって誰にでも愛想振り撒いて、ガード緩めて」
「そんな、違…」
「キミはほんまアカン子ォやな」
かすかに怒りを孕んだ口調とは対照的な慈しむように与えられるくちびる。つめたい指先、熱い眼差し。
甘ったれた手つきで隊長の首筋に縋り付く。白い咽喉を引っ掻くように愛撫して。潤んだ瞳には彼だけを映して。掠れた声で啼く。
たぶん私、いま猫になった。
見境ないんやね誰にでもそないな顔見せてたら知らんよ- - - - - - - - - -
2011.01.03
ねこになりたいのです。ねこに。