罠。

 悩んでも仕方のないことが頭からどうにも離れてくれなくて途方にくれつつ、勝手に漏れ出してしまいそうなため息を半分温くなったお茶で飲み下しかけたときのこと。

「脱いだろか?」

 唐突に予想外の台詞が聞こえて、ごほごほとお茶が喉の奥に引っ掛かったのでいつのまにか自分は液体よりもものすごく比重の軽いさらっさらでぺらっぺらの物質になってしまったんじゃないかとバカみたいなことを思った。
 目を白黒させている私の背中をとんとんと撫でながら、金髪の彼は平然とした表情をさらしているのが腑に落ちない。私はいまにも鼻からなにかが出てきそうなくらい動揺しているというのに。

「…っ、は!?」
「聞こえへんかったん?」

 聞こえなかったというか、聞こえた言葉が信じられないというか、意味がわからないというか、わかりたくない。きっと聞き間違いにちがいない。間違いに違いないって違うが重なりすぎて微妙な表現だよなあ、ってことはひとまず置いといて。聞き間違いに違いない。きっと。きっと。
 もごもごと口内で無意味な言葉を反芻しながら何とか呼吸を整えている私を面白そうに見下ろしたまま、平子さんがクイッと唇を持ち上げた。やたら自信ありげなその表情はなんなの。ちょっと、なんなの。
 空耳があたかも空耳ではないような錯覚に陥りそうだけどアレはない。さすがにアレはないよ。空耳だよ。まさか。
 だって、脱ぐ?脱ぐって、あまりにも脈絡がなさすぎるじゃないか。話の流れ的にどう考えてもおかしい。脱ぐ。脱ぐって、なにを?誰が?なんのために?「脱いだろか?」いやいや。たぶん「ついだろか?」とか、そういう優しいことをたまには言ってみようと思っただけだ。彼の気紛れ。きっと、そう。
 そうに違いないと思い付いて見れば、平子さんの傍にある急須が目に入って、こっそり胸をなでおろす。「ついだろか」だ。
 それにしても、ついだろか?を脱いだろか?に聞き違えるなんて、いったい私の耳はどうしたと言うんだろう。耳風邪かなにかを患っているのだろうか、イカれるにも程があるよ、しっかりしろ自分。

「あ…りがとうございます」

 ため息をつきながら湯飲みを差しだしたら、目の前のきれいな眉が変な具合に歪んだ。

「なにしとんねん」
「え、」
「俺に茶ァつげ、ってか」
「いや、でもさっき ついだろかって」
「ちゃうわアホ」
「………」

 ついだろか、じゃない?じゃあ何て言ったんだ平子さんは。剥いたろか?
 急須の横にはこれみよがしに蜜柑がひとつ転がっている。なるほど。剥いたろか、か。そういうことね。
 ひんやりと冷えたそれを取って、じゃあ遠慮なく剥いてもらおうじゃないかと差し出せば、ぺしん、と手のひらを払われた。痛い。

「なんやそれ」
「剥いたろか…?」

 ころころと転がる蜜柑を目で追いながら首を傾げる私にヘッドロックをかまして、平子さんはぐりぐりと頭に渦を描く。もげる。首がもげるって、それ。

「も、もいだろか、ですか?」
「ちゃう。ちゅーか、ほんまにもいだろか」
「痛いいたい、ギブですギブギブ!」

 バンバンと畳を叩きながらもがけば、盛大なため息が耳たぶをなでた。かなりくすぐったいんですけど、なんなのいったい。ついだろか、でも、剥いたろか、でも、もいだろか、でもないってなんなの。私にはこれ以上のボキャブラリーはない。痛いし近いしわからない。

「脱いだろか言うてん」
「だ、誰がですか」
「俺が」
「な!」
「俺、が」
「わ!や!」

 慌てて目を覆った私の両手首をがっしりつかむと、平子さんはまっすぐ視線を合わせる。近い。近すぎる。

「何考えとんねん」
「……」

 なに考えてるというか、そんな至近距離で見つめられたらなにも考えられなくなるんですけど。

「お前のために脱いだる」
「いやいやいやいやいやいやいや、」
「なんぼほどいやいや言うてんねん」
「なんぼでも言いますよ、困ります」
「なんで」
「なんで、って…そりゃそうでしょう花も恥じらう純真純情可憐でウブでナイーブな乙女に向かっていきなり脱ぐって、なに突然血迷った変態みたいなこと言うんですか平子さんセクハラですかセクシャルハラスメントですか止めてください」

 息もつかず一気にまくし立てれば、悪びれもせずに彼はニヤニヤと見下ろしたままわずかに距離を詰める。手首をホールドされたままで身動きもとれない。やけに近いその顔が、いつにもまして余裕の表情をしているものだから、だんだん不安になってくる。

「セクハラはどっちやねん」
「……」

 いやな予感がする。ものすごく。透き通る琥珀の目のなかに、呆けたような自分が映っている。
 一方の彼は、不遜という言葉では表しきれないくらい不遜な表情。平子さんがこういう顔をするときは、大抵、ろくなことがないのだ。

「俺、あれやで」
「あれ、って?」

 薄々自分の過ちに気づいてはいたけれど、というか、重々思い知りかけていたけれど、この場合「誤った」というよりも「誤らされてしまった」というほうが正しい。つまり、嵌められた。

「俺はお前のために一肌脱いだる、言うてるだけやねんけど」

 脱ぐ。一肌脱ぐ。
 前半があるかないかで、なんて違って聞こえるんだろう。日本語って難しい。

「なんやまたアホみたいなしょーもないことで悩んどんねやろ、どうせ」
「…!」

 ああ、やっぱり。
 嵌められた。

 こともあろうか、とんだセクハラ女子に仕立てあげられてしまった。この人がこういう人だと知っていたのに。脱ぐ。一肌脱ぐ。「一肌脱ぐ」の「一肌」を省略すれば勘違いされかねないことをわかっていて意図的に省きやがった。こういう風に面白がる人だと知っていた。なのに。

「何をどう勘違いしはったんですかァ」
「……ばか!」
「お前がな」

 そう言って平子さんが鮮やかに笑うから、つられて私も笑う。私がバカ、そのとおり。うん。知ってる。すぐに嵌められるくらいバカ。悩んでも仕方のないことでいくらでも悩めるくらいバカ。知ってる。ついでに言うなら「脱いだろか?」のたった一言ですでに平子さんが一肌脱ぎ終えてしまったことも、知ってる。
 ほらね。
 気がつけば、さっきまでのちっぽけな悩みなんてどうでもよくなっていた。


罠。
それともほんまに脱いだろか?

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20121111
こんな人、ください。
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