話の種にもならない話
とっくに知っていたよ、そう言って彼は笑うのではないかと思っていた。ひとり残らず恋におとすレベルのきれいな笑顔で、今更なにを言うんだい、って。造作もなくすべてを見抜いて無自覚に笑うはず。吉良副隊長はするどい人だから。
だけど実際はそうではなくて、そう思いたかったのは私だけで、たぶん私の一言、一言で少なからず彼を傷つけている。現在進行形。
「違うんです。そういう事ではなくて私は、」
「何が違うんだい?」
月を映した瞳が、刃物のような硬質の光を放っている。もともと美しい造形を持つ人が傷ついてゆく姿は、なおさら美しい。
傷つけられて、故意にまとっている鎧がはがれると、根っこに潜んだ美醜が剥き出しになるのだ。きっと。
私にもうすこし余裕があれば、もっともっとこの人の被っている殻を砕いてやるのに。一枚、一枚剥ぎとってやる。そうすれば彼はもっと綺麗になるのに。困惑する頭のすみっこでは不謹慎なことを考えている。
「違うん、です よ」
「………」
強がる私の裏の裏にこっそり隠した本音までたやすく読み取って、その上で気付かないふりをして微笑む人なのだと思いこんでいた。甘えていた。甘えすぎた。
謝りたいのにろくな台詞も浮かばない。さっきから「違う、違うんです。違う」と、そればかりをくりかえしては、さらに彼の傷を抉っている。
違う、のに。
私が本当に言いたかったのは――
喉元までこみあげた言葉をのみこんでただ見つめる。眉をひそめたまま、彼はなにも言わなかった。伏し目がちな視線の先には無惨に跳ねとばされた眼鏡が、さびしげに転がっていた。
眉間に刻まれたシワがいつもよりずっと深くて、青ざめた卑屈な顔は透き通っている。色素の薄い肌と死覇装の濃色の対比が、彼の美しさにすごみを増しているようにみえた。
「もう、行くよ」
踵をかえす彼に、待ってのひとことも言えず立ち尽くす。どうしよう、どうすれば。先行きの不安が、身体のなかに鉛のように溜まって動けない。
さらりと翻される袴裾のささいな動きさえ、彼は美しい。ゆれる前髪も、つめたい表情も美しい。遠ざかってゆく足音をききながら、彼のうつくしさばかりを数えていた。
副隊長が消え、隊士たちも去った夜の隊舎は寒々しい。怖くはないが、背骨の芯から心までひえていくような、そんな錯覚におちいる。
「目つきの悪さの緩和策には眼鏡が有効らしいですよ」
「前髪を伸ばして隠すより眼鏡でもおかけになればよろしいのでは?」
「副隊長、目つき悪いですからね」
「まっすぐに見つめられると(美しすぎて)怖いと言われてるのをご存知ないんですか」
自分の暴言をいくら反芻しても落ち込むだけだとわかっていて、何度もなんどもくり返す。これは禊ぎだ。洗いながせない罪を自分に刻み込むための儀式のようなもの。
あかりを落とした隊舎の暗闇で、ぎゅっと膝を抱えたまま延々ひとりごちている自分の姿は結構、いや、かなり不気味に違いない。
おちたまま放置された可哀相な眼鏡が、私をじっと見つめている。お前のほうがずっと可哀相だ、と言われている気がした。
「副隊長、ぜったい眼鏡お似合いだと思ったのに」
夜の隊舎でひとり呟く女、ほんと気持ち悪い。でも、いまはむしろ誰かに思い切り蔑まれたほうが気がラク。なんならいっそ自分で罵倒してやりたい。だってこの暴言の数々、あらためて酷すぎるでしょう、私。
「馬鹿だ」
本当はね、
あなたのその長い睫毛と瞳にまっすぐ見つめられたら、それはもう大変なことになるんです、私が。だから、ほんのすこしだけ眼鏡で心的負担を軽減できたらいいなと思ったんです。
趣味と実益も兼ねて。
本当はね、
あなたの眼鏡姿がただ見たかっただけなんです。きっとすごくお似合いだと思ったんです。剥き出しのあなたは余りにきれいすぎて目の毒だから、オブラート的なものが欲しかったのかもしれない。
結局のところは、ただ、それだけなのに。
「私、ホント馬鹿だなあ」
「そうだね」「ごめんなさい」
床に転がったままの眼鏡を拾い上げる。吉良副隊長にさしあげるはずだったそれは、すっかりつめたく冷えていた。ごめんね。
「この子には謝れるのに、ね。なんで彼には素直になれないんだろう」
「全くだよ」 ごめんね、君にはなにも罪はないのにごめん。無機物にむかって謝りながら、大切な壊れ物のように大事に大事に、てのひらでそっと包み込む。
「自分でも呆れる」
「ふふ、」「笑い事じゃないし」
ホントに呆れすぎてため息しかでないよ。ひとりで膝をかかえていつまでも誰もいない隊舎に残ってうじうじ考えていたところで、何も解決などしないのに。誰もいない隊舎で。
誰も、いない…
誰、も?
え!?
誰もいないのだとしたら、さっきの相槌はなに。私はいったい、誰と会話してたの。
誰か、いる。ここに。自分以外の誰かがいる。ものすごく恥ずかしいひとりごとを聞かれてしまった。まずい。
いったい、誰?
ぽっかり闇が穴をあけたみたいな真っ暗な入口を凝視する。だれもいないし、気配も感じない。しーん、と静まり返った空間だけがそこにある。
「誰か、いるの?」
返事はかえってこなかった。
息をころして呼吸をととのえ、どれくらいが過ぎただろう。空耳だったのか、と肩の力を抜いた瞬間。
首筋を低音がなでた。たしかに誰かが私の名を呼んだ。
「こんな時間に女性がひとりでここに居るなんて感心しないな」
「副、たいちょ…」
やあ、って先程のことはまるでなかったみたいな態度で吉良副隊長が立っている。私から1メートルと離れていない場所に。霊圧も感じさせず、こんな近くに。
いつの間に。
なんで副隊長こそこんな所にいるんですか。なんでそんな風にまたきれいに笑ってるんですか。私の心臓潰す気ですか。
なんで、どうして。
「ちょっと忘れ物をしてね」
掠れた搾り出すような声がすぐそばでまた聞こえて、それだけで心が震えた。からだを持って行かれそうな気がした。
「なにを?」と問い返せば、彼は不敵に笑う。そんな顔、これまで一度もみたことない。
「君が知らないはずないのに」
「私が…?」
はじめて見せられた意地悪に歪む表情も、おそろしくきれいだった。まぶたの裏に染み付いた。ああ、またひとつ彼が殻を破ったのだ、と思った。
「そう、君が」低い声が言った。整った顔のなかで長い睫毛が一度閉じて、またひらく。連動するように心臓がぎゅう、と潰されて反発で脈があがる。
「目つきの悪さを緩和しにきたよ」
「あれは、そういうのでは」
「ああ、」
とっくに知ってる、と彼は言う。甘い目が私を見下ろして笑う。蜂蜜色の髪がゆれる。
「なにを?」とふたたび問い返せば、私の心がざわざわと波打った。
「君の、本音」
意地悪してごめんね、そう言ってニッコリ笑いながら男の大きな手が私のてのひらをつつむ。私が大事にしまい込んでいた物体は、あっという間に彼の手のなか。
「私の…本音……」
なかば放心状態で呟く私を見下ろしたまま、副隊長は奪いとった眼鏡をかける。フレームの上の隙間から、意味深な視線がこちらを射抜いている。
「そう。君が見たかったのは、これだろう?」
ああ。やっぱり、思った通り。いや予想以上だ。吉良副隊長には、なんて眼鏡が似合うんだろう。言葉を失う。ため息がでる。オブラートどころではなくて、いつもの彼よりもっと直視できない。
「似合わないかな」
「い、いえ。とても、」
視界のすみっこで、彼の長い指がずれたフレームを押し上げる。さりげないその仕草で、なぜか、気がとおくなりかけた。
眼鏡姿が見たかった。なのに、目の前で見せられたらどうすればいいのかわからなくなった。朦朧として、なにも考えられなくなる。相乗効果がおそろしい。
「大丈夫かい?」
間近で顔をのぞき見られれば、余計に大丈夫じゃなくなる。大丈夫ではないところに押しやられる。
「僕にもじつは案外ガキっぽい所があってね、すまない」
「ガキ っぽい…ですか?」
何のことかわからなかった。急に日本語さえわからなくなった。眼鏡姿の彼に目がくらんで、脳みそまでおかしくされた。見たいと思っていた自分は馬鹿じゃないかと思った。
こんなの、自殺行為だ。
「素直になれずに困惑している君があんまり可愛いから、つい」
そこまで言って言葉を切ると、彼は私に手をのばす。しなやかな細い腕が、ひえた身体を包みこむ。めまいがする。なにが起きているのかも、もう理解できない。
「わざと傷つけられているフリをしたんだ。ごめんね」
耳元で低い声が言った。皮膚の内側をなでるような声。私から思考をうばう声。持ちこたえられなくて脱力した身体を、きつく抱きしめられた。夜にまぎれて抱きあったら、しっくりと肌がなじんだ。
二人はどうも似た者どうしらしい。
話の種にもならない話好きな子ほど虐めたい心理はお互い様- - - - - - - - -
2011.12.22
イヅルくんに眼鏡が似合わないわけがない