幻と過ごした夏の夜のこと
ぴったりと締め切った部屋のなかでぐるぐる巻きの布団に包まっていてもまだ鳥肌が立つくらい寒い。神様ご存知ですか、いま夏なんですよ、真夏。なのに、がたがた震えながら自分で自分の肩を抱きしめたまま意識がだんだん薄れていく。
「なんなの…こ れ、」
体調を崩すと心まで弱々しくなるとは言うが、何故だろう。こんな時には誰かに抱きしめてもらうのが一番に違いないなんてバカみたいなことを考えてしまう。
けれど、真夏のまっただなかのこんな季節、冷房も切った暑すぎる部屋のなかで更に熱い身体を包んでくれるようなお人よしには心当たりがない。まったく、なかった。
「ない…けど、」
誰だったら嬉しいんだろう。もしもここに自分の望む人がたった一人だけ来てくれる、としたら。神様がそんなサプライズを提供してくれる前振りとしてこんな苦しみを与えているのだとしたら。そして、選んだたった一人の誰かが そっと背中から私のカラダを包み込んでくれる、としたら。
夏風邪っちゅうのはなァ、バカしかひかへんもんやねんて。
聞き慣れた関西弁が脳裏をよぎって、心臓が騒いでいる。
「………アイツ、か」
もしかして私がいまここにいてほしいのはアイツなのか。腹が立つくらいさらさらの金髪をいつもいつも見せつけているアイツ。バカにしたような顔で、だけど瞳のずっと奥には体温のあるものを秘めているアイツ。
誰、なんて。
本当はいくら考えても一人しか浮かばないくせに。わざわざ問い掛けて自分で自分の病気を重くしている。
たぶん、風邪。間違いなく夏風邪ってやつ。おまけに、恋の病。らしい。
アイツがここに来るなんて、そんなことがある訳ないのに。
――なんで私一人暮らしなの。
「夏風邪はバカしかひかない、か」
わかってますって五月蝿いなあ。どうせ私はバカですよ。放っといて。って、いままさに誰からも放っておかれてる最中なんですけどね。
高熱でぼやけた頭のまま軽く自嘲しているうちに、どろり、重たい眠りのなかに吸い込まれていた。
こうやって寝込んだりするといつも決まって変な夢をみる。熱が高いときはとくにそうだ。きょうの夢のなかで私はまるで魚みたいに、薄暗い海のなかを延々と泳ぎつづけている。息継ぎもせずに。
音のない空間のなか、あたまの奥のほうでずっと耳鳴りがしている。金属音のむこうから、かすかに、ほんのかすかに聞こえる人の声が自分の名前を呼んだような気がした。
ぶくぶくと息を吐き出せば小さな水泡にわずかな光が反射してきらきらとゆれる。銀色にきらめく小さな玉をてのひらで掬い取ろうとしたら弾けて消えた。
自分のまわりのわずかな範囲しか見えない暗闇で世界中からたった一人だけ取り残されてしまったような気分だ。ほかにすることなんて思いつかなくて、泳ぐ。泳ぐ。泳ぎ続ける。息が続くことをおかしいと思いもせずに。
「寒…」
よほど深いところにいるから水温が低いのか。肌に纏わり付く液体が身を切るようにつめたい。
「くる、し い」
息継ぎをしないから苦しいのかもしれない。つめたい水の温度に、体温をじわじわと奪われる。あまりに深すぎて、水圧が私のカラダをぎゅうぎゅうと締め付けている。圧迫されて内臓が飛びだしそうだ。苦しい。くるしい。助けて。たすけて、真子…――
こんなときにも、いちばんに浮かぶのはアイツなのか。私も相当重症だなあ。重症だけど、ほかの誰も浮かばない。浮かぶのは彼だけ。
――真子…
夢のなかで、もういちど彼の名を呼んだ瞬間。
ふわっとカラダが温かくなった。急に浅いところへ浮かび上がったように。
ああ。
やっと 息が できる。
目蓋が、首筋が、あたたかい。もがくように伸ばしたてのひらもあたたかいものに包まれる。
あたたかいのに、まだくるしいなあ。
(あほか)
耳元にすべりこむ、やわらかい声。
つめたい水のなかから、ほのぬるい浅瀬に瞬間移動して、脱力したまま穏やかな波に揺られているみたいだ。背中があたたかいから、ほっとして息を吐く。まだ膜の張った聴覚のむこうから、ふたたび自分の名を呼ぶ声がきこえる。
(お前な、)
名前を呼んだあとに、乱暴にお前と告げるその声がすきだ。と思った。
(あんま俺を心配さすな)
心配?なにが心配なんだろう、誰が心配なんだろう。
この声の主は、誰。
(ほんま、無茶しよんなァ)
まるで真子の喋り方だ。こんなところにいま、彼がいるはずもないのに。一人暮らしで寝込んでいる私を不憫に思って、神様はずいぶんと素敵な夢を見せてくれているらしい。この夢が、ずっと覚めなければいい。
「いい、ゆ め…」
「夢ちゃうわボケ」
ひやり、つめたいものが額に触れる。
さっきまであんなに寒くて堪らなかったのに、その温度が染み込むのを心地よいと思っているのが不思議だ。ひんやりと、気持ちいい。余計な熱がそこから少しずつ冷めていく。
「キモチ いい、」
「なんで風邪ひいとんのにこない薄着やねん」
「……」
「なんでこない弱っとんのに俺呼ばへんねん」
「……え」
「なんで勝手に一人で死にかけとんねん」
あれ。
首筋にかかるぬるい風はなに。
鼓膜をなでるこの声は、なに。
「ゆめ」
「ちゃう」
「げんじつ?」
「せや」
ゆっくりと重い目蓋をひらけば、肩ごしに真子の顔。額が触れそうなドアップに呼吸が止まりそうになる。
「うそ」
「しゃーから、ちゃう」
「なんで」
「なんででもええやろ」
いや。良く、ない。
風邪引いて寝込んで、熱出して苦しんで、汗かいてすっぴんで、部屋着だし髪の毛はぼさぼさだし、よくない。ぜんぜん、良くない。
「やだ」
「なにがやねん」
「うそだこれ」
「あほか」
「夢でしょ、夢って言ってくださいお願いします」
「誰に頼んどんねん」
「かみさま」
じたばたと腕から逃れようとする私を真子はあっさり押さえつける。細い腕に見えるのに、私の力ではびくともしないから余計必死になる。
「おとなしぃしとけて」
「助けてかみさま」
「神様なんていてへんわ」
「……」
「居てるのは俺だけや、満足か」
ぶんぶんと首を振ったら、頭がくらくらした。
いまのでまた少し、熱が上がった気がする。
満足、というか、恥ずかしすぎてもう一度あの深くて冷たい水の底へ沈んでしまいたい。嬉しいけど、なんでいまなの。なんで。私のなけなしの乙女心はどうなるの。さっき私なんでここに一緒にいてくれるのが真子だったら嬉しいなんて思ったんだろう、バカじゃないの。神様のサプライズも時と場合によるんだよ。なんで真子がいまここにいるの。どうして。
困惑のままに、あふれ出る問いをぶちまけようとしたら。
「ええから、もうちょい寝とけ」
ほんまは着替えたほうがええやろけど、俺が着替えさす訳にいけへんし。そう言って片肘をついたまま私を見下ろす真子の顔が、ものすごく優しかったから。
髪をなでる指の動きが、それはもう、やわらかかったから。
「起きるまで添い寝しといたる」
低く響くその声に、吸い込まれるように
すとんと眠りに落ちた。
幻と過ごした夏の夜のことお前が寝言で俺の名前呼んだ瞬間 うっかり襲ってまいそうになったやんけ。