市丸教授の日常
研究棟に一歩足を踏み入れた瞬間、空気の温度が2℃ほど下がった気がした。きっと外との明度差のせいだろう、一瞬だけ目がくらんだ。
昼間とは思えぬその空間は、かすかに黴臭くて、そこにほんのりと古びた書籍や煙のにおいが混じっている。薄暗い廊下をとおりぬけた先に、目的の部屋はあった。市丸教授の研究室。
長い廊下をひとりきり、コツコツとヒールの音をひびかせて歩く。すこしずつ先生の部屋へ近づくたび緊張がたかまって、あと数歩のところで立ち止まると、ゆっくりと深呼吸をする。さっきより強く、煙のにおいをすいこんで、それが先生の吸う煙草のかおりだと気付くと余計に緊張している。落ち着くための深呼吸が、まるで逆効果なんてばかみたいだ。
ばかみたいだと思うのに、勝手に早まる動悸は止められない。もう一度深呼吸して、残りの数歩をすすむ。扉をノックする手がふるえた。
――コンコン。
曇りガラスの向こうから、ぼんやりと明かりがもれている。教授は在室らしい。
ここまで来ておいて今さらだけど、いっそ不在ならばよかったのに、と思った瞬間。なかからやわらかい声が聞こえた。
「いてるよ。どーぞ」
つめたい金属のレバーを押して扉をひらいたら、デスクに向かう白衣の背中が見える。肩ごしに立ち上る煙草の煙。市丸教授の愛用銘柄は、煙のにおいがやけに甘い。正面の窓からの陽射しで、細い銀髪がきらきらと光っていた。
「失礼いたします」
「ちょっこっとだけ待っててや」
このメール返信してまうさかい。そう言って、くわえ煙草のままこちらへ視線を投げた彼はすぐに正面へ向き直る。キーボードを叩く音がしずかな部屋を満たしている。
壁一面を覆いつくす書籍の背表紙を目で追いながら、先生にすこし近づいた。
「堪忍な。お待たせ」
「いえ」
先生が振り返るまで、どれくらい時間が過ぎたのだろう。ここは外よりもゆったりと時間が流れているようで、よく分からない。先生はもう、煙草の火を消していた。
「なんや、質問でもあるん?」
ずれた眼鏡を直しながら、市丸教授が問う。細いフレームの奥で、わずかにひらいた瞳が私をまっすぐに捉えている。いつも閉じているのか開いているのかわからない細い眼が、しっかりとこちらを見ていた。
「……」
「どないしてん。用事あるん違うの」
かるく首を傾げるのといっしょに、さらさらの銀糸がゆれる。
講義のときにはいつもきちんとしめられたネクタイが、いまは少しゆるんでいる。くつろいだ姿を見せられて、誰も知らない先生に自分だけが近づけた気がした。
なかなか口をひらかない私を一瞥して、先生は眼鏡を外す。眉間を揉みほぐす指はひどく白くて、作り物のようにきれいだ。
「用事ないんなら早よ出てって。ボクこう見えて案外忙しねん」
「あの、」
一旦外した眼鏡を掛け直すと、市丸教授は鋭い視線を寄越した。
「やっと言う気ィになったん」
「はい」
「ほなどうぞ」
すう、っと息を吸い込んで呼吸をととのえる。それでもまだ、とく、とく、と心臓がさわいでいる。
「先生にお願いがあるんです」
「なん?」
「今度の試験で私に合格を下さい」
「そないキミだけ贔屓はできひんなあ」
ボク、こう見えて案外リベラリストやさかい。そう続けて、市丸教授は困った子どもを見るように笑う。
「その為なら、」
私は一旦言葉を切ったまま、うつむいた。
次の言葉を告げようか告げまいか、ためらって。ここへ来るまでもずっとためらい続けて、結論が出ないのだ。
「あら、続きは?」
「……」
「緊張してはるんやね」
すっかり先生には見抜かれている。
「ボク、そうゆう子嫌いやないよ」
人前であがる子ほど、ほんまは感受性豊かで面白い人間やったりするモンやからなァ。そう言って、市丸教授は席から立ち上がると一歩、私の方へ近づいた。
教卓を挟んで向かい合っている講義のときよりも、ずっと距離が近い。手を伸ばせば届きそうで、だけどどこまでも遠くて、それが切なくて。自分がここへ何をしにきたのか、目的を見失いそうになる。
「珈琲でも煎れよか」
キミも飲むやろ。問われて、無言のまま頷いた。
先生と並んで腰かけて、コーヒーを飲む。温かい液体をゆっくり飲み下していたら、やっとすこし落ち着いた。
「そろそろ話できるんと違う」
「…はい」
「いつでもええよ」
「今度の試験で、どうしても合格したいんです」
「ほんで」
「合格 させてくださるなら。そのためなら私 なんでもします」
市丸教授は、じっと私の瞳を見つめる。また、細い眼をひらいて。私の言葉の真意をたしかめるように。
見慣れないその双眸に見据えられると、やっぱり胸がどきどきする。
眼鏡のレンズに光が反射して、頼りなげな表情で先生を見あげている自分の姿が映った。
「それほんま?」
「……」
「ほんまに何でも しはるん」
「…は、い」
肯定の返事をしたら、顔のすぐそばで銀髪が揺れて。
耳元にそっと、市丸教授はささやいた。いままで聞いたこともないような、つやっぽい声で。
「ほんなら、してくれはるかな」
なにを。
私は、なにをすればいいの。
意味深に言葉を切ったまま、先生は耳元からうごかない。生ぬるい吐息が先ほどから首筋をなでている。胸がくるしい。
「私は、なにを」
「そんなん決まってるやろ」
言われな分からへんの?と告げてくつくつ笑う先生の声が甘い。
覚悟してここへきたのに。本当は期待すらしてきたのに。いざこんな場面になると心臓が破裂しそうで、急に教授室の空気がうすくなったように思えた。吸い込んでも、すいこんでも、ちっとも酸素が肺に入ってこない。くるしい。
「なんでもしはるんやろ?キミ、そないゆうたよね」
「 は、い」
どくり、どくり。不自然なほど脈拍が暴れている。
次に先生の口からでてくる言葉を待って。聞きたくて、聞きたくなくて。こわくて、ぞくぞくする。
そっと見上げた視線の先で、市丸教授の顔があざやかに歪んだ。
「ほな、して……………お勉強を」
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(もっと別のこと言われたかったん?)