きまじめな愛の欠片
隊首室から霊圧がもれている。夜も遅いのに、朽木隊長はまだ一人こもったまま。つねに波立つことのないしずかな水面を思わせる彼が、ごくまれに他人に対する防御壁をより強固にすることがあるが、どうも今がまさにその時のようだ。
ひとりで抱え込むのが、彼のやさしさゆえの悪い癖。まわりのみんなは貴方が思ってる以上に貴方のことが好きで、だれもが貴方の役にたちたいと思っているのに。
「邪魔をするな」のひとことで、勝手にまわりを退けようとする。退けられると思っている。
一見つめたくひびくその言葉が、貴方を慕うものには無意味だと、いったいいつになれば気付くのですか。お伝えしたところで、あの人は表情ひとつ変えず拒絶するにちがいないけれど。
「ばかな ひと…」
護廷隊隊長としての重圧はわかる。己に向き合い、さまざまな事象の大局を同時平行的に見極めることが必要なポジションだから精神的な疲労もはかりしれない。先をよみ、関係する多くの席官や隊士らを適材適所に配し、ときに他者の不手際までそつなく処理する。その類の能力にかけては、隊長多しといえど朽木隊長の右にでるものはいない。
「ある意味、完璧にこなしすぎだとおもうんですよね…」
そう。完璧すぎるのだ。一分の隙もなくなにごとも完璧。ただひとつ、隊長自身のことを除いては。あの方は、自分をまるでぼろ雑巾のように酷使なさる。
「だから、心配なんですよ」
独り言を呟きながら過去を思う。彼がかつて妻を娶り共に暮らしていた頃は、こうまで酷くはなかったはず。噂にきく愛妻家だったというから、執務を終えればまっすぐに帰宅し、気難しい彼のなかに溜まった空気を彼女が上手に抜いていらしたのだろう。それを思うと、むねがちくちくと痛む。
べつに奥さまの代わりに、などと大それたことは望まない。亡き人を羨むのは愚かだ。私はただ、隊長の苦しみをほんのすこしでも軽くしてさしあげたいと、純粋にそう思っているだけ。
「失礼いたします」
「失礼だと思っているのなら、入って来るな」
お茶をいれて隊首室へむかえば、屁理屈めいた返事がきこえる。子供のワガママのようなものだと言いきかせ、そっとお傍に寄った。
彼に親しむ前には知らなかったが、しずかな物腰の向こうには案外かわいらしい本質が隠れている。子供っぽい部分だとか、天然ボケな部分だとか。妹溺愛のすぎる兄像も、貴族ゆえの世間知らずっぷりも正直かわいくて仕方ない。惚れた欲目と笑えばいいよ。
ただし、そう見ていることは決して彼に悟られてはならないけれど。
「お茶、お入れしました」
「そこに座れ」
「先ほど、邪魔するなと仰ったのによろしいのですか」
「別にそういう意図はない」
そうですか。微笑みを浮かべ、そっと隣の席に腰をおろした。隊長は端正な顔をかすかに歪めて私をみると、すぐに目をそらす。
「何用だ」
「え?」
「女がこんな時間まで、なにをしていたのだ、と聞いている」
湯呑みに伸びる指先は、ちいさく震えている。威圧感にあふれた空気が一瞬で部屋をみたす。
「執務を」
「嘘を申すな」
「なぜ、そんな」
「分かっている」
「何を、ですか」
そうだよね。隊長は部下の行動や心情を必要以上に把握してしまう人。きっと眉のちいさな動きやささいな声色でさえも、彼が真実をよみとるのには充分な情報なのだろう。
「とぼけるな」
「とぼけてなどいません」
とっくにばれている。見抜かれていると分かっていて、私はなぜ薄っぺらい言葉を重ねるのだろう。
「さっさと申せ」
「隊長……絶叫系ってご存知ですか」
「知らぬ」
私はなぜ、その場しのぎの言葉を重ねるのだろう。
「現世には絶叫マシーンと呼ばれる遊戯施設があって、それに乗ることで強制的に叫び声をあげてストレスを解消する者もいるらしいですよ」
脈絡もない話題に、隊長が眉をひそめる。自分自身でもなぜそんなことを口にしているのか良くわからないまま、言葉が走る。
「興味がない」
「そうおっしゃらず、一度乗ってみては如何ですか」
「それが、兄の用向きか」
「へ…?」
「私をそうして誘うために、こんな時間まで隊舎に残っていたのか、と聞いている」
誘う。私が隊長をお誘いする?まさかそんな恐れ多いことは考えたこともなくて、次の台詞が出てこない。
「室の前でしばらくぶつぶつ唱えていたのは、私に話を切り出す練習…いわゆるリハーサルというやつか」
なるほど。と頷いた隊長は、湯呑みからゆっくりお茶を啜った。
たしかに私はさっき独り言を呟いていたが、それとは全然ちがうことで。ただ隊長を心配していただけで。
勝手に誤解して勝手に納得されている隊長に、否定の言葉を申し上げるべきだろうか。
「あの、隊長…」
「現世デートのお誘いとやら、受けてやっても構わぬぞ」
え、あの、デート?えぇえええ!?
うれしい。ものすごく嬉しいのだけれど、どうしてこうなった?さっきまでの我欲をおさえこんだ慎ましい部下の私が一瞬で消えそうになっている。ただの、隊長の勘違いで。
いや、本心では勘違いバンザイなんだけどね。これは現実だろうか。夢なんじゃないだろうか。
「すみません隊長、ちょっと頬を抓ってみてくださいますか」
私がそう言えば、彼は自分の頬を抓って顔をしかめる。素直というか天然というか何というか、笑いがこみあげる。我慢できずにくつくつと笑いがもれる。
「なにを笑っている」
「隊長の、ではなく私の頬です」
「それを早く言え」
恥ずかしげに頬を染めた隊長の指が私の顔に触れる。皮膚を挟んだその指が思ったよりも熱くて、そちらの方に気持ちをうばわれて、痛みを知覚できない。
「やわらかいな」
「…!」
胸がどくん、と鳴った。ただでさえ動揺しているのに、不意打ちで隊長がそんなことを言うから。そんなことを言って、優しく目を細めたりするから。私はいよいよ言葉をなくす。頭のなかはパニック状態。固まったままうごけない。
「それで?私の手までわずらわせて、兄は何がしたいのだ」
「………………」
「二度は聞かぬ」
「…は!あの、痛みを、夢かと、抓って、現実か、その、痛っ」
とりあえず口を開いてみたが、なにを言いたいのか、なにを言ってるのかさっぱり分からない。困惑した私を見据えたまま、隊長の指が頬の表面をすうっとなでた。
「痛かった、か」
「…いえ」
なんなんですか、その慈しむような目は。私も勘違いしてもいいですか。
「次の非番の日、必ずあけておけ」
きまじめな愛の欠片頬よりもむしろ胸のほうが痛いです。