気まぐれなベクトル

「ったくお前は…」

 前回出しておいた宿題は、真っ白。悪びれもせず、ぺらりとそれを差し出した彼女は、何故か薄い笑みを浮かべている。

「やる気ねえの?」
「違うよ」
「じゃ、何だよ」
「秘密」

 そう告げて、小さな笑い声を漏らす顔は、真面目でも不真面目でもない。
 まあ、お前が考えそうなこと位簡単に想像がつくけど。
 きっと、面倒臭かったか、気紛れか、受験に意味を見出していないかのどれかだ(もしかしたら、俺の気を惹きたい…ってのもアリかも)。

「こんな問題もわかんねぇとか、今更言うなよ?」
「うん…」

 今まで俺のやってきたことが水の泡なんて、めんどくせぇ以外の何物でもねぇからな。



drawn by asami



 ずれた眼鏡のフレームを指先で押し上げると、ため息を吐く。

「奈良先生、」
「んだよ?」
「あのね、多分アタシ成績はちゃんと上がると思うの」
「へぇ…そりゃ良かった」
「先生、そう見えてすごく教え方上手だしね」

 "そう見えて"っつうのは余計なんじゃねぇか?と思ったけど、返事はしなかった。

 並んで座ったまま、窓の外へ流す彼女の視線は、真っ直ぐだ。
 横顔に夕陽があたる。ほんの少しだけ細められた瞳の上、長い睫毛はきれいなカーブを描く。

「でも、アタシが成績上がるって、どういう意味なんだろうって考えたら」

 そこまで喋って、ふっ…小さな息を漏らした彼女に、何故かどうしようもなく見惚れた。
 おいおい、俺。こいつは生徒で、俺は(バイトだけど一応)先生っつう奴で、俺から見ればまだケツの青いガキじゃねぇか。
 まあ、歳は2つしか違わねぇけど。

「で?」
「うん。あのね、」

 キュッ、ちいさな軋みを上げてキャスターが動く(俺の中の何かも小さく軋んだ…気が、した)。
 窓の外から俺の方へと視線を戻した彼女の、やわらかそうな髪がふわり、靡く。

「アタシが成績上がるとか、志望大学に合格するってことは、」

 彼女の大きな瞳に、俺が映っている。
 焦点は、俺のずっと向こうの何かを見ているように、ゆらゆらと揺らいでいた。

「その分誰かが成績下がったり、行きたい大学に行けなくなるってことでしょう?」
「まあ、そうなるな」
「そんな、他人から搾取した幸せを喜んでもいいのかなって…」

 ったく、面倒なことばっか考えてんだな?
 でも案外、お前ってバカじゃないらしい。それに、頬が緩む。
 ポスン、持っていた参考書で頭を軽く叩くと、唇を歪めて笑った。

「んなことばっか考えてねぇで、勉強しろ」
「でも、」

 唇を尖らせて、反論しようとしている顔を、可愛い…と、思うなんて不覚だ。
 不覚だけど、悪い気分じゃなくて。

 瞬きをするたびに揺れる長い睫毛の、小さな動きにも見とれる。
 触れそうな膝頭が、ほんの少し熱を持つ。
 上目遣いの瞳が、今度は真っ直ぐに俺を映している、と気付いたら、身体の中心がちいさく震えた。

 俺、もしかして

 こいつに惚れてる?


「奈良先生はそう思わない?アタシの所為で、誰かが不幸になるんだって」
「まあな。でもよ、」
「……」

 目にかかる長い前髪を掬いあげるように、そっと指先を差し込んで。
 至近距離で、瞳を合わせる。

 ほんのり彼女の頬が染まる(ってことは、こいつもきっと)。


「お前がそれを意識してんなら、問題ねぇんじゃねぇの?」
「自覚した上で頑張れってこと?」
「そういうこと」

 笑顔を取り戻した彼女の頭をくしゃくしゃと撫でる。
 広がる甘い香りに、どくり、騒ぐ心臓を鎮めて。
 ため息を吐き出すと、どうにかポーカーフェイスを貼り付けた。

「でも、先生…なんの為に」
「はい、質問。お前の志望校はどこですか?」
「えっと、奈良先生のいる大学」
「だよな」
「うん、それがどうか……」

 少し上を向いたお前の無防備な額に、軽く唇を押し当てる。
 瞬間、小さく揺れる身体に、背筋がぞくり(まだダメだ、今は先生と生徒)。

「バーカ。理由なら、目の前」
「……っ!?」

 ニヤリ、口の端を持ち上げると

 耳元で低く声を紡いだ――



紛れベクトル
(俺の隣、居てぇんだろ?)

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2009.01.09
補足:彼女が入学した後、2年しか一緒に居れないじゃないか。
いえいえ、賢い奈良先生は大学院に進学するので、びっちり4年間一緒に過ごせちゃうんです。なんていう、未来の背景設定あり。
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