セピアの恋
「ゲンマの好きにすればいいよ」
一言だけを告げて、この手からすり抜けた女。
記憶のフレームに切り取られた光景もその声も、時が経つほどに鮮やかさを増しているのかと錯覚する。
網膜を通して与えられた刺激が、あれほどにはっきりとカタチを残した事など、他にはひとつも思い出せなくて。
ちょうど恋人達が色めき立つ季節だったから、尚更深く印象に残っているのか、それとも相手がお前だったからなのか。
身体の中心を貫く芯にしつこく絡み付いたように、そのワンシーンはいつまでも消えなかった。
◆
「ゲンマにとっては、それが正しい事だったんでしょう?」
私にとってもそうだったし。
久々に聞いたその声には、思い詰めた様子もなく、かと言って軽々しくもない。
皮肉のように、街は再び浮ついたカップルで溢れ、至る所に甘ったるい匂いが漂っている。
「正しいってのがイマイチしっくり来ねぇけどな」
「そう?」
私の中では正解=一番納得の行く仮説ってニュアンスかな。
淡々と紡がれる台詞には、およそ色っぽさの欠片も滲まず、それがいかにも彼女らしくて、無意識に口元が綻ぶ。
真実が何かなんて、常に意識している訳じゃないが、少なくとも自分の感情に嘘をついた事だけはない。
たった一度を除いては――
女誑しを自認している故に、深入りは無意識に避けるのが当たり前の毎日。それに何の疑問を持つこともなかったかと問われれば、否と答えざるを得ないが。
少なくとも、特定の存在を望む嗜好は持ち合わせていない筈だった。
なのに、
あの時ほど心から特定の誰かを望んだことはなくて。
「ゲンマの好きにすればいいよ」
暗褐色の瞳を支配する華奢な後ろ姿。
その、余りの潔さはある意味神聖にすら思えた。
適当な相手と微妙な距離を保つことでバランスを取ってきた脆い背骨を、たやすく砕かれる感覚。
引き止める言葉ひとつ浮かばないまま、広がる距離が切なくて。
残された僅かな余韻に身を焦がした。
「正解なんてわからないけど、あの時のゲンマはそれに納得してたんでしょう?」
「ああ、一応は…」
お前が消えたこと以外は全て、な。声にならない言葉を、心の中だけで続ける。
「だったらそれがゲンマの真実で」
正しいって、曖昧で主観的だけど、そういうものじゃない?
まっすぐな瞳には、ゆらりと千本を弄ぶ自分の姿。
俺を捉えたせいなのか、柔らかく視線が緩んでいる。
「いまはどうだか知らないけど」
「そう言うお前はどうなんだよ?」
「さあね、ゲンマ次第かな…」
くすり、悪戯に小さく笑って。独り言のように零れる声は、あの時と少しも変わらなかった。
セピアの恋
(試すような真似すんな) そんなことしても無駄。
と、言いつつお前を試す俺には、もう嘘を吐くつもりなど微塵もない。----------------
2009.02.11
お誕生日のカイさんに捧げ