舌きりむすめ
面と向かうと、どうしても名前が呼べなかった。
理由は最初から分かっている。シカマルのせいだ(正確に言うならば、シカマルのことを意識し過ぎている自分自身のせい)。
端正な顔に見下ろされると、鳩尾から喉元までの器官がおかしくなるらしい。
らしい、という言葉が適当なのかどうかはともかくとして、鳩尾から喉元の間に属する心臓以外の部分(心臓は最初から痛い)が、目には見えないけれども激しく脈打つのが感じられるから、やはりきっとマトモではないのだろうと思う。
その違和感は徐々に転移して、鼻腔の奥から涙腺までがおかしくなる。
結いあげられた黒髪の下、鋭い瞳が私を見つめる。私の奥を、隠した欲望も、浅ましい想いも全て見透かしているような、それでいて大切なものを愛でるような双眸。
なんでシカマルは、そんな目で私を見るのだろう。
見つめられたら、私がもっと名前を呼びたくなると分かっているからなのか、それとも意識なんてしていないのか。分からないけれど、視線に射抜かれた部分が音を立てて崩れだす。
「おい」
なんでそんなに力の抜けた優しい声で呼ぶのだろう。
響きの持つ糖度に背骨が溶けそうになる感覚は、コーラを飲んだら歯が溶けてしまいそうな気がするのと似ている。
麻痺しかけた視覚がシカマルを捉えれば、神経系を伝わって刺激が大脳に届き、その反射として大脳は間違いなく声帯に向かって指令を送っているのに。名前を呼べ、と。
指令に反して、あらわれる反応は酸欠混じりの吐息だけ。
何度もなんども試みてみたけれど……シ、決まってたった一音を吐き出すか吐き出さないかのところで声が出なくなる。
喉の奥に何かが痞えたように息苦しくて、どうやって声を出していたのかを身体がすっかり忘れてしまうのだ。
そのくせ、頭の中では煩い位に彼の名前を連呼していて、シカマル…シカマル、シカマル……今にも鼓膜の奥からいっぱいになった響きが溢れ出しそうになる。
愛おしさの塊が、吐き出せなくてもどかしい。
呼びたいのに呼べない状態は、激しい嘔吐感で目眩がしそうなのに胃液しか出て来ない状態にそっくりだ。込み上げるものが確かにあるのに、出て来たものはその何十分の一にも満たないわずかな欠片だけ。
微かに漏れる空気が、ひゅ、とも、しゅ、ともつかない羽虫の羽ばたきのような儚い音を残して消えてゆく。なんて切ない響きなんだろう。
彼の名を呼べないことが、こんなに苦しいことだとは思わなかった。
ついさっきまで正常に機能していたはずの声帯は、彼を前にすれば、始めから壊れていた器官のように全く言うことをきかなくて。
その歯痒さで私のなかはぐちゃぐちゃになる。
息を吸い込んでは吐き出そうと試みるたびに、徐々に呼吸は浅くなり、むず痒いまでの苦しさと相俟って心臓が潰れそうだ。
ざわざわと泡立つ肌を包み込むように、両腕で自分を抱き締める。
気付いたら、眉間に皺の寄った醜い顔が出来上がっている。
とは言っても、自分の表情は自分では見えないから、シカマルの眉根が顰められることで、いつも私はそれを知るのだけれど。
「お前、さ…」
なに。と、相槌を打つこともままならなくて、瞬きを返す。
ふ。小さく空気が揺れて、シカマルの顔が近付いて来るのを、黙って待っている私には、この先の展開がすべて読めていて。
予定調和の未来に、どうしようもなく身を焦がす自分の姿を、一歩下がった所で俯瞰している。
シカマルの背後には、窓枠に切り取られた濃い藍色の空。淡く闇に染まった雲がゆっくりと流れていた。
言葉の続きの代わりにシカマルが齎すのは、私の名前を呼ぶ嗄れた声と泣きたくなるくらい優しいキス。
キスをする前、いつも決まって嗄れている彼の声は、まるで呼び水のように私を潤ませる。なのに咽喉はどうしようもなく渇いたままで、やっぱり一音すら発せないなんてなんだか皮肉だ。
皮膚を掠める唇に、想いのすべてを委ねるような、そんなキスをするシカマルは、狡い。
私はと言えば、名前ひとつ呼ぶことも出来ずに立ち尽くすだけなのに。
シカマル…シカマル、シカマル……相変わらず、頭の中では苦しい位に彼の名を連呼しながら、触れては離れ、また啄ばむ彼の唇を必死で追いかける。
角度を変え、強さを変えて、何度もなんども繰り返し重なる唇に、身体じゅうが痺れて。
泣きたくなる位の気持ち良さに意識が霞み始めた頃、糖度を増した吐息に乗って痞えていたものがどろりと流れ出す。
「…っ、しか」
「ん?」
どうしようもないくらい好きで、好きで堪らなくて。鳩尾で凝縮した想いに絡まって、言葉がそこで固まってしまう。
蜘蛛の巣に絡め取られた哀れな羽虫のように、小さな羽ばたきすら困難で。足掻けば足掻くほどに足元を掬われる。
それもきっと、シカマルの事を好き過ぎる所為で。だから、たった四文字で構成されている名前すら呼べない。
何故呼べないのかと考えると、呼べばもっと自分の感情が膨らむことが分かるから、それが怖いのかもしれない。
既に膨らみ過ぎて破裂しそうな想いを、吐き出さなければ自分が壊れてしまいそうで。かと言って、吐き出せば想いはもっと膨らむだけで。
その矛盾の狭間、ジレンマに苦しんでいる状態、と言えばより正しさに近付くのだろうか。
呼べなくて、でも、呼びたくて苦しいのだと、伝えようとするのに言葉にはならなくて。
きっとそれを伝えた所で、苦しさが楽になる訳でもないのだろうけれど。
「す……」
「ああ」
でも、短い彼の相槌はきっと私の真実をぜんぶ、ぜんぶ分かってくれているように優しいから。
私の髪に触れる指先は、絡まる想いを少しずつほぐしてくれるように優しいから。
「くるし…い」
嗄れた咽喉から、ひとことだけを吐き出して。
やわらかく心を撫でる視線に、何も無理をする必要はないのだと、力の抜けた身体をすべて彼に預ける。
愛しすぎると、言葉さえ失うのだと、どこかでぼんやりと思いながら。
「俺も一緒、だから」
ため息を吐き出すような、低く掠れた声を漏らした彼の、困ったように歪んだ顔。
痛い位に抱き締められて、カタチを変えた苦しさが私を包めば、やっぱり、泣きそうな位に彼が愛しかった。
舌きりむすめ 君の弱さも、言葉にならない想いも、その顔を見れば全部伝わってくるから。ありのままを俺に委ねればいい(そして、俺の感情も受け止めて)。 コトバは要らない――