結髪雫

 彼はまるで水のようだと初めて思ったのはいつだったか、もう忘れてしまったけれど。
 まるで細かい土の粒子の隙間で息づく透き通った地下水のように、いつの間にか彼は私の奥深い部分にひっそりと忍び込んでいた。
 自分でもそれと気付いていなかった私の隙を突いて。
 なめらかに、確実に。
 とは言っても、彼には隙を突こうという作為的な想いもなければ、忍び込んでいることに気付きもしていないのだと思う。
 穿った見方をするならば、何の作為もなくやってのけるにしては彼は賢すぎたけれど、終始曖昧にゆらぐ彼の瞳には、嘘や意地の悪い意図など見えなかった。


「シカマル…」

 いつもは年上らしく"奈良くん"と呼ぶその呼称を、名前に変えただけで彼の黒目は微かに潤む。
 雨の降り始める直前の、過飽和に傾きすぎた空のように。
 そんな姿を見せられれば、私の心もじわりと潤み始めるのだけれど、その感覚はまるでふたりの間で愛情を乗せた水分がやり取りされる感じに似ていて。
 みずみずしい、しなやかな存在。
 肌の表面の細胞からじわりと浸透するように、彼が私のなかへと入り込む。


 かさついた心を、もの静かな視線に鎮められると、今度は水分を含み切れなくなった心が泣き始める。
 そんな風に感じていることを伝えれば彼はきっと顔を綻ばせて喜ぶのだろうが、私からは決して彼に伝える気はない。
 それよりも。
 いつか彼が自分で気付くまでのその間、頼りなく揺れて潤む黒目に、じっと見惚れさせて欲しい、と思う。



「何なんだよ…俺は、」

 いつだったか彼は、苦しそうにそう告げて、私の首筋に歯を立てた。
 痛みに逃げる肩を押さえ付ける腕に、骨が軋む。
 なのにぎゅうと強く閉じた瞼に落とされたキスは、限りなく優しくて。
 目玉を舐められ、シーツに隠れた肌を乱暴に撫でまわす掌の熱を感じながら、やっぱり彼は水のようだと思った。


 猛々しさと優しさが共存する愛撫に溺れながら、掠れた脳内で私が考えていたのは全く別のことで。
 たとえば溺死するときも私は、苦しくて堪らないのに、身体に纏わり付く水を愛しいと感じるのだろうか。



 幼い頃から水と呼ばれる液体がどうしようもなく好きで、そして、その好きな気持ちと同じ位怖かった。
 水場近くで生まれたからなのか、母の羊水に包まれていた記憶が遺伝子に刻まれているからなのか。
 水は、はじめ包まれれば非常に優しくてやわらかい、心地のよいものとして幼い私のなかで認識されていた。
 そんな風に正方向の認識しか持っていなかった水が、限りなく怖いものにもなり得るのだと知ったのもまた、説明のつかない遠い記憶によるもので(記憶なのか直感なのか、いまになってもまだ分からない)。
 その日初めて見た水車は、お腹の底から発生した震えが全身に広がって泡立ち、突如おそわれた悪寒でガチガチと歯の根が合わぬほどに恐ろしかった。
 前世というものは本当にあるのかも知れない、でなければ、この言い知れぬ恐ろしさは説明できない、そう思わずにいられない位。
 勿論まだ幼かった私は前世や来世という言葉を知らなくて、その理由付けは、ずっと後になってからのものだ。
 その瞬間はただ、頭のなかに流れ込んでくるイメージがひたすら怖くて。
 飲み込まれてしまいそうな恐怖感を自分の中から追い出そうと、必死にぎゅうと瞼を閉じたことを覚えている。
 もしかしたら音の持つ効果だったのかも知れない。圧倒される大きさの木片が軋む音は、地の底を這う獣の鳴き声を思わせる気味の悪いものだったから。
 とにかく私は、目と耳を塞いで必死に前を通り過ぎた。


 その後、育つ経験のなかで雨の優しさと恐ろしさから、改めて水のもつ両面性を学んだのだけれど、やはりあの水車を見たときの恐怖感に勝るものはなくて。
 以来ずっと、私にとって"水"は特別なものだった。



 何の後ろ暗さも見えぬ人の良い顔で、"身体の大部分を占めている成分は水なのだ"と教えてくれたのは、鼻に傷のあるアカデミーの新任教師。
 それを知ったとき、自分のなかで曖昧に揺らいでいた想いに、合点がいく気がした。
 こんなにも水に焦がれるのは、私の構成要素の殆どを水が占めているせいなのだ、と。
 理由のつかない愛おしさに、理由を与えられた気がして頬を緩めた私に、教師は鷹揚で裏のない笑顔をくれた。



 カカシ先輩との日々が渇いたやわらかい風のようなものだとしたら、シカマルとの日々は潤んで透き通る水のようだと思う。
 どちらも私が私であるためには欠かせないものに違いないし、面倒な噂を理由に先輩との関係を変質させる気はまったくない。
 シカマルが噂を耳にしたとしても、彼はきっと問い質すことはしないだろう。
 彼には、本能的に私の本質を見抜くところがあって、それは多分彼がそれだけ私のことを良く見ているからだと思えば、背筋がふるえるほど嬉しい。



「何なんだよ…俺は、」

 あの言葉がシカマルの精一杯の問い掛けで。
 だけど、彼は答えを求めていた訳ではないと、その声を聞けば分かってしまう。
 求めているのは上辺だけでどうにでもなる言葉ではなく、声にしなくともどうしようもなく溢れて伝わってしまう私そのものなのだと。

 どちらもが大切だとは言え、ふたりの男の位置付けはまったく違っていて、比較対象にはなり得ない。
 カカシ先輩のポジションは過去を語る上では欠かせないし、積み上げてきた時間が作りあげた私達の空気を、単純な男女のそれと見紛う人がいることは仕方ないとも思える。
 殺戮を目的に身体を動かし続けるのには、想像を超える精神的負担を伴うもので。
 そんな時を共に過ごした先輩とは、他人には計れない深いもので結び付いているのもまた確かだけれど、言葉で説明するのはとても難しい。
 シカマルと決定的に違うのは、彼との関係で心がふるえる事はないってこと。
 それだけで、充分じゃないだろうか。

 荒みきった過去で失われた体内の水分量を補うように、シカマルを求める。
 私の求める部分を、シカマルは確実に満たしてくれる。
 彼に触れられるたびに泣きたくなるほどふるえる心と、彼に触れるたびに震える指先。
 名前を呼ばれるたびに全身の皮膚が泡立って、名前を呼べば愛おしさに苦しくなる。

 ホントの所は彼をどう思ってるの? 他人のことには興味を持たない先輩が、そんな問いをするのは意外に思えた。
 それほどに、彼と私の関係は異質なんだろうか。
 ごく普通の付き合いなんですけど。 短い答えは、私の正直な気持ちで。普通という言葉では表しきれないけれど、間違いなく私はシカマルを愛している。
 水に焦がれるように、水を畏れるように。
 いつの間にか私のなかに染み込んでいた男。
 既に彼の存在は私の構成要素の大部分を占めていて、それをたとえば失うことがあれば、普通に立っていることさえきっと難しい。
 傍から見れば不可解な関係なのかもしれないけれど、これがきっと私と彼の愛情のカタチなのだ。
 ま。ほどほどにネ。 私の言葉に微妙な笑みを見せた先輩には、多分なにもかも見抜かれているのだろう。


 浴室からは、彼の浴びているシャワーの音が静かに続いていた。
 あの音が止まれば、彼はまたいつものように微かに眉を顰めて、感情を滲ませぬ努力をした声でこう言うのだろうか。"俺、帰ります"と。
 そして私は今夜もまた、微笑んだままで"そう…"と、相槌を打てるだろうか。



「お先っす」
「おかえり」

 静かに開いた扉の向こう、現れたシカマルの姿はみずみずしく湿っていて。
 乱暴に結いあげられた髪の先から、雫がぽたり。滴った――




ホントは一緒に入りたかったんすけど

そんな風に何気なく、
静かに侵食してくる彼を
拒める訳がない――
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