無邪気さを被る

 優しく頭を撫でられる感触で目蓋を開いたら、見たこともないほどに優しい表情のシカマルがこちらを見下ろしていた。
 シカマル。 呼びかける自分の声は何故か、小動物の鳴き声に似た音へ変換されて聞こえる。
 寝起きだから、まだ声帯が正しく働いてくれないのかも。と、特に気にも留めずに目を閉じた。途端にするり、眠りの淵へ吸い込まれるようにうとうと。
 目を開いていた短い瞬間、止まっていたシカマルの手の動きは、目を閉じるのと同時に再開されて。ふわふわと頭全体を包まれる感じが堪らなく心地イイ。

「また寝んのかよ」
「……」
「お前はいいよな。気楽で」

 春眠暁を覚えずっていうけれど、春になった途端に眠たくて堪らない。薄く片眼を開いて見た窓の外では、ひらひらと桜の花弁が舞っている。
 頭の下には、シカマルの膝の温もり。なんて幸せなんだろう。
 つん、と鼻の頭を突かれて、抗議するように目を見開いたら、端正な顔のドアップ。
 シカマルの瞳って、こんなに大きかったっけ。耳たぶも、そこにくっついてるピアスもやけに大きく見える。ほんのすこし違和感。
 鼻の頭同士がくっつく位置まで身体が持ち上げられていて、吸い込まれそうに黒い瞳がじっと私を見ていた。

「寝んなよ」

 そんなこと言われても眠いものは眠い。
 あとちょっとだけ。 応える声はまた言葉にならなくて。ふにゃふにゃと崩れている。
 ほら、やっぱりまだ咽喉も眠たいんだよ。ちいさく漏れた短い声も、ごろごろと鳴る喉も、まるで猫のそれみたい。

「ったく…可愛い声で鳴きやがって」

 鳴く?
 言いながらシカマルの掌は、やわらかいタッチで背中を往復する。いつもは、一緒にいるからってこんなにべたべたすることはないのに、珍しい。
 でも、気持ちいいから。たまにはこんな風に膝に乗せられて、たっぷり甘やかして貰うのも悪くない。自分からはなかなか甘えられない私だから。
 彼がこんな風に愛でてくれるのは、滅多に甘えてこないシカマルの甘えたいサインなのかも。
 寄り添い合う行為を馬鹿にしている訳ではないけれど、私たちはお互いに素直になるのが苦手で。肌から染み込む感情に飢えているのかもしれない。
 目が覚めたら今度は代わりに、私がたっぷりひざ枕で甘やかしてあげるから。だからもうすこしだけ、心地よいまどろみを堪能させてね。心のなかで呟けば、ふたたび眠りを誘うように、シカマルの指が背中を這う。


「ところで、お前……どこの子?」
 なんつうか、撫でても靡かない感じが、あいつそっくりなんだよな。

 ――え?

 急になに変なこと言ってるんだろう。ちらと片目を持ち上げて、眠りの邪魔しないでと無言の抗議。
 背中を丸めて私を見下ろす瞳はやっぱりすごくやさしい。

「その目付きもそっくり」

 くく、と喉の奥で笑う彼は楽しそうだけれど、嘘をついたり冗談を言ってるようには見えなかった。

「こんだけ綺麗なんだから、きっともう飼い主がいんだろうな」

 飼い主って言葉はともかく、彼氏は目の前にいるけどね。
 まったく、何を訳の分からないことを言ってるんだろう。黙ったまま、軽く睨みながら顔を見上げる。

「お、起きた。やっと俺の相手してくれんの?」

 シカマルって"相手してくれ"とかおねだりするようなキャラだったかな、と首を傾げていたら、ふたたび身体が持ち上げられて。鼻先がこつんとぶつかる。
 って、あれ?
 ちょっと待って、身体を持ち上げられたって…なに?いくらシカマルが私より力強いって言っても、こんなに軽々と抱え上げられるってヘンじゃないだろうか。

「こうして近くで見っと、ますます似てんだよなあ…」
 吸い込まれそうな目の色とか、さ。

 触れそうに近くで喋られると、シカマルの息が口許に直接当たってくすぐったい。ふわふわ揺れているのは、ヒゲ…ひげ……髭!?

 見下ろした自分の身体はやわらかい毛皮に覆われていて。ナニコレ!? 叫ぶ声はやっぱり、小動物のそれに変換されていた。

「痛っ。どうしたんだよ、急に」

 驚いた拍子に無意識でシカマルに爪を立てたのらしい。視線を移した先にはふわふわの黒毛に被われた手と尖った爪。

 ――ねこ。

 さっき感じた違和感は、このせいだったんだ。私、猫になってる。
 シカマルの肩に乗る黒猫になりたいと、確かに願ったことはあったけれど、まさかそれが現実になるなんて思わなかった。疲れ過ぎた網膜が見せる幻影じゃないだろうか。
 ごしごしと瞳を擦れば、もたらされるのはやわらかい毛の感触で。そんな私の仕草を、シカマルは目尻を下げた大好きな表情で見つめている。

「んな眠ぃのか…邪魔してわりぃな」

 ぽすんと膝の間に下ろされて、耳たぶの裏を撫でられれば、眠気が引き戻される感覚はあるのに、今はそれどころじゃない。
 くるんと丸めた身体の先にくっついた、見慣れない物体は、紛れも無い尻尾ってやつだ。試しに動かしてみようかと思うよりも早くゆらゆらと揺れるそれ。

「なんだよ、やっぱ遊んでほしいの?」

 にー。短く鳴くだけで、彼は優しく眉を下げる。シカマルって猫を見るとき、そんな顔するんだ。見つめられる部分が、溶けてしまいそうな顔。
 相手が人間でも動物でも、その顔を見せられたらみんな、きっとシカマルに惚れずにはいられないと思う。
 何故こんなことになってるのかはわからないけれど、シカマルのその顔を見れたんだから、たったそれだけでも猫になった価値がある、なんて、ぼんやり思った。

「腹減ってねえ?」

 減ってない。 言葉はやっぱり鳴き声になって聞こえる。

「ちっと待ってろ」

 立ち上がりながらシカマルは私をそっと肩に乗っけて、視界がぐっと持ち上がる。落ちないようにしがみついたら、鎖骨に小さな爪跡がついた。

 ごめんね。謝罪の言葉も、にゃー。

「わりぃ、わりぃ。急に立ち上がったから怖かったな」

 器用に片手でミルクを注いで、小皿と一緒に床に降ろされるのが寂しい。白い液体には見向きもせずに、隣に腰をおろしたシカマルの膝へ飛びのった。

「飲まねえの?」

 にー。だってお腹減ってない。

「ほら」

 お腹は減ってないけど、ミルクの付着した指先を差し出すなんて反則だ。そんなことされたら、お腹が空いてなくても舐めたくなる。
 ちろ、ちいさく舌を出して、形のよい指先を舐めれば、嬉しそうなシカマル。

「よく出来ました」

 わしゃわしゃと頭を撫で回す手。そこからじんわりと染み込む体温が、どうしようもなく愛しかった。

 にゃ。シカ、大好き。 どうせ何を言っても、言葉は伝わらないんだから、いつもは言えないことを言ってみるのもいいのかも。

「ん?」

 にゃー。好きなの。

「もっと飲みてえ?」

 違うのに。ただスキって伝えたいだけ、なのに。言えないことを言ってみようと思った時の浮ついた気持ちは、伝わらなければ意味がなくて。
 でも、猫の私には何も出来ない。彼の指を舐めるくらいしか。

 にー。ありったけの切なさを乗せて小さく啼いたら、

「その声もあいつにそっくり」

 頬に優しいキスが降ってきた。


 ◆


 寝てしまって意識がない状態だとわかっていても、好きな女に"好きだ"と連呼されれば口元も緩む。
 頬に落としたキスでうっすらと瞳を開いた彼女は、何故だか思いの外哀しい表情をしていた。

「なんの夢見てたんだよ」
「ゆめ…」
「ああ。寝言なんて珍しいんじゃねえ?」
 俺は聞けて得した気分だけど。

「……ねこ」

 猫になった夢でも見てたのか。
 無言でいきなり、俺の肩口の服をずらす指。それに手を添えて、もう一度引き寄せると反対の頬にキス。

「どうした」
「やっぱり、傷になってる」

 鎖骨についた爪痕を見つめる彼女に、にやり。笑って見せた。

「昨日の晩のお前、乱れてたからな」
「ばか」
「それより…」


被る

さっきの。もう一回、言って。


 照れたように頬を染める姿がどうしようもなく愛おしくて。猫になった彼女でも、きっと俺は愛してしまうんだろう――
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2009.04.05
猫になって仕事から逃げ出したい
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