こわれる
滑り落ちた。
掌を擦り抜けて、最初から誰のモノでもないと主張するように。簡単に。
水の入ったグラスは冷たくて、触れた瞬間に脊椎を悪寒が走る。温度差に驚いて力の抜けた指では支えきれなかった、ただそれだけ。
「大丈夫?」
「平気っす」
音を立てて砕けた欠片は、差し込む月の明かりに鈍く光る。溢れた液体はいつまでも欠片に絡み付き、やがて漲力を失って無残に流れ始める。
目の前の物体に意志など存在しない事は分かっているのに、お前のモノにはならないと拒絶されたように思えたのは、きっと俺が卑屈になっているせいで。
"大丈夫"と問う彼女の言葉の対象がただ物体に向かうものだとするならば、それに"平気だ"と答える俺は全く別のことを考えている。
「奈良くん」
「……」
彼女の呼び方がまた元に戻っている。歳上で階級も上だとか、気にするのは下らねえ。シーツの海に溺れて、絡み合っているときはまったく意識しないのに。
なにが"平気っす"だよ。全然平気じゃねえだろ、俺。だっていま、どうしようもねえほどに心が揺れている。
――馬鹿みてえだけど。
モノが重力に従って落下し、何かにぶつかって壊れる。単純な力学的事実だ。床に叩き付けられる際の力は、その落下高さとの関係で自動的に決まる。そこに俺の思惟の入り込む余地はない。
だとしたら、俺はいまどのくらいの高さにいるんだろう。彼女がいま手を離せば、俺は叩き付けられて壊れるだろうか。それとも皹が入るだけで軽傷だとか、上手く行けば無傷で済むんだろうか。
グラスは、皹が入ってしまえば使いものにならない。そんな中途半端に傷付く位ならいっそのこと、ばらばらに壊れてしまったほうが潔い。だとしたら、俺も?
「どうかしたの?」
「いや」
飛び散った小さな欠片が、鈍く光りつづける。動揺してしまったのは、それがまるで目の前の女の想いを吸い上げたもののように思えたから。
「そのままにしておいていいから」
「でも、危ねえし…」
簡単に破壊しておいて、放置する。それがアンタの本心なのか?じゃり、と踏み付けて血を流す俺が見てえとか。
卑屈な感情を悟られたくない一心から、砕け散った欠片を拾い集めたいと思った。
闇の中、目を凝らしたところでたかが知れている。
「明かり、点けてイイすか」
「つけないで。そのまま」
それよりも、と細い指に手首を掴まれれば、指示された事象の不可解さよりも、皮膚の窪む感覚で脳内は占領される。
単純なモンだ。
「まだ足りねえの?」
「さあね。足りてるかと聞かれたら満足してるけど」
「けど?」
見下ろす視界で彼女が微笑みを浮かべたまま瞼をとじる。ちいさな表情の変化にも心臓を掴まれて、砕ける寸前のように鳩尾は微動を繰り返す。
「シカマルならいくらでも欲しいと思う」
「へぇー…」
「果てがない感じ。なんて、ね」
欲深いでしょう?
眼を閉じたままの顔を、そっと見つめる。
果ての見えないほどの欲望というならば、それはきっと彼女よりも俺の中に強くあるもので。それだけには絶対的な自信がある、なんて主張するのは自慢でもなんでもねえけど。
いつから俺はこんなめんどくせー男になったんだろう。無意識に口端が歪むのは、自嘲なのか。
「欲深いっつったら」
長い睫毛の先に唇を押し当てると、込み上げる愛おしさに身もだえる。どうしたらいいのか分からないほどの想いは破壊衝動に似ていて。言葉にならない想いの代わりに、彼女を噛み砕いて飲み込んでしまいたい、と思った。
「俺の方がずっと欲深ぇかも」
こわれる
アンタを目茶苦茶に壊しちまいてぇと思ってるから
滑り落ちた。
音を立てて壊れたのは
俺の心ではなくて。
愛おしさのかたまりと
馬鹿な劣等感――
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2009.04.29
企画提出しようと書きかけて、お蔵入りになっていたもの。背景設定は[あなたのその曖昧で柔らかい部分]とほぼ同じ