君の二酸化炭素でおやすみ

 我ながら、結構大胆だったかもしれない。それ以前に意外で、だけどそんな自分のことは嫌いじゃない。

 ――次のお休みを下さい、か。

 遊び馴れた女だと思われたかな。そう危惧している一方で、彼がそんなことを思う男ではないと分かっている。
 だって、あの日のカンクロウさんは、ちょっと可愛かったから。

「お、俺でよければ」

 口ごもる声はいつもよりほんの少し高い。遊び馴れた女を利用してやろうなんていう、したたかな男とは真逆の反応。武骨な彼の手そのままの印象で。そんな彼だから、私の唇はあんな言葉を紡いだんだろう。

「…いくらでも付き合うじゃん」

 反らした顔はどんな表情だったのか分からないけど、明るいブラウンの髪の毛の隙間で耳朶は色付いて。不意に掴まれた掌が熱かった。

「楽しみにしてますね」

 言葉通り、心はむずむずと浮き立ったまま。何度も同じ場面を反芻して、3日が経つのなんてあっという間。
 待ち合わせまでの時間は、あとすこし。時計の秒針は確実に動いているのに、新緑のゆれる街角は時が止まっているように思える。

 カチリ、取り出した煙草に火をつけて。5月にしてはあたたかい風といっしょに、燻った空気を吸い込む。
 雨の降りそうな空気は、たっぷりと水蒸気を含んで。肺の壁からじわりと染み込んだら、身体のなかが潤んでいく。

 あと10分。
 細く吐き出した煙りがゆっくり空に立ちのぼる。酸素に溶けて消えるまで見守りながら、夜と昼では同じ白い煙りがなんて違って見えるんだろうと思った。
 考えてみれば、なにもかもがいつもと違っている。暗い闇のなかではなく、こんなに明るい昼間に会うのも。彼の私服姿を見るのも。私が彼を待つのも。
 そう意識した途端に、心臓の奥がぴくり、跳ねて。慌ただしく煙草を揉み消すと、パンプスのつま先をそっと見つめた。


「早いじゃん」

 ブラウンの髪を靡かせて、走り寄るカンクロウさんからは、いつもと違う香り。爽やかな柑橘系のそれは、香水だろうか。そんなことまで違っているから、なおさら胸は動悸をはやめる。
 私の知っているカンクロウさんは、いつも真っ白なコックコートに身を包んで。ほのかにお砂糖の甘い香りと煙草の煙。口数は少なくて、器用そうなのに武骨な掌のヒト。
 手にしている情報なんて僅かなのに、知っているすべてが何故かじんわりと胸を温かくする。そんな男のヒトだ。

「来たばかり…です」

 いつもと真逆の黒い服にも、いつもより開いた胸元から覗く鎖骨にもドキドキする。これから新しく知る彼のことも、きっと全部好きになるんだろう。それは予感ではなく、確信で。
 彼を好きだから、彼を形作る構成要素を好きだと思うのか。それとも彼の仕草や格好が好ましいものだったから、彼を好きになっていたのか。どちらが先かは分からないけど。

 差し出された手に、条件反射で掌を預ける。乾いた肌の感触、当たり前のように降ってくるはにかんだ笑顔。やっぱり好きだ。

「いつもと違う感じ…じゃん」
「…え?」

 見上げた彼のバックで、空が泣きそう。淡いブルーグレーのなかで、褐色の髪が優しくゆれる。

「……いや、なんつうか。明るいなかで見たら、いつもより―――」

 聞き間違いだろうか。言い逃げるように顔を背けた彼の耳たぶが赤い。
 聞き返すのは野暮な気がして、かと言って同じように褒め言葉を返すのも柄じゃない。だから代わりに、繋がれた指にぎゅうっと力を込めてみた。
 きっと今のふたりは、よく似た感覚を抱えていて。むず痒さと感情の高ぶり、不思議なやすらぎがないまぜになった空気が、やわらかく辺りを包んでいる。

「どこ、行きましょう」
「……それより、」

 否定を含んだカンクロウさんの言葉の意味が分からなくて。そっと隣を見つめたら、無言で腕を引かれた。意外にも強い力で。
 転ばないようにと見つめた足元に、ぽつぽつと滲む水玉。

 ――あ、雨…。

 空が泣くのに合わせて、地面も服も色を変える。湿った空気が彼と混ざり合い、やわらかい色香を醸す。カンクロウさんの髪の毛の先から、滴る雫はキレイだ。

「まずは、雨宿り…だな」

 一番近くの軒下に駆け込んで、くしゃりと撫でられた頭。子供騙しみたいなそんな仕草、別に好きでもなんでもなかったはずなのに。触れてるのが彼だというだけで、心が騒ぐ。
 歯の浮くような褒め言葉も、カンクロウさんの声で乱暴に紡がれれば厭味じゃなくて。
 自他ともに認める冷めた女だったはずが、相手が彼ならばふわふわと頼りない。
 濡れてふるえる肩を、無造作に抱かれる。強引にも思える行動なのに、抵抗する気はなかった。食い込む五指の触感に気をとられて。
 普通ならば、初めてのデートで雨に降られるなんて、イライラするだけだと思う。だけど彼となら、それすらも嫌じゃないなんて不思議だ。むしろ、こうして寄り添う口実を与えられたことに、ひそかによろこんでいる。
 水分を含んだ身体は、まるでいまのふたりそのもの。愛おしさって、湿度をともなうものなのかもしれない。

「やっぱり、いつもより……」
 可愛いじゃん――
 ざらり。耳たぶを撫でる吐息は、たっぷりと熱を孕んで。低い響きに、骨がきしきしと疼いた。
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