ひかりとかげ

 心臓を押し潰されそう、という言葉は、いまの彼女のためにあるんだ。と、思った。

 しゃんと背筋を伸ばした姿と、横たわる男を見下ろす視線。ふたつのイメージの間に醸される、微妙なコントラストが痛々しい。


「奈良くん?」

「うす」


 また来たの。振り返らずに呟く静かな声、ベッドサイドの古ぼけた時計が八つ時を告げる。その隣には彼の愛読書。情景だけを見れば穏やかにすら見える空間は、不可視の淡い切なさを漂わせている。

 カカシ先生の病室に来てしまう理由は、自分でも説明がつかなかった。ただ、周りが勘繰る色めいた感情を抱いているわけではなくて。


「どうすか」


 彼女をいつかの自分と重ねてしまったから、なのかもしれない。状況はもちろん違うし、あの頃の俺よりも彼女のほうがずっとしなやかだと分かっているのに。




「信じてるから………大丈夫」


 同じ台詞を、もう何度聞かされただろう。日に日にその声は頼りなさを増していく。

 大丈夫、に臨床的な根拠を見付けられない以上、信じることを理由にするしかないのは充分にわかるけれど。結局はそれ以外になんのよりどころもないわけで。目の前に意識のないまま横たわる彼。それだけがすべてだ。



 無駄に凛と透き通る姿勢は、彼女の不安の裏返しに思える。そんなに強がらなくてもいいのに。

 でもそれは周りにいる者に対して虚勢を張るというよりも、彼女自身の為で。気を抜けば、彼女を支えている芯がぽきりと折れてしまいそうだからなんだろう。

 心当たりがあるからこそ黙って見ていられなくて。そっと肩に手を置けば、細い身体が小さく震えた。


「そうっす…ね」


 本当は彼女と同じように"大丈夫"と言ってあげるのが、ふつうの言動。でも、彼女がいま欲しがっているのは、根拠のない上っ面の台詞や希望的観測じゃなくて、正しい状況判断に基づく言葉だと思うから。


「少なくとも、生きてるっつうことは確かなんすから」

「…うん」

「あとはカカシ先生の生命力と、意志の問題じゃねえっすか」


 意識のない状態で、意志云々を話題にするのはどうなんだろうか。一瞬頭をかすめた疑問は、何度も無言で頷く彼女が目に入れば消えた。

 人間ってのは不思議なモンで、薄っぺらい言い方だけど、強く願えば想いが叶ったりする。そんな場面には、これまでに幾度も遭遇したし、逆もまたしかりで。諦めれば呆気なくそこでぷつりと途切れる。

 繋がったり離れたり、引き合って高まり合う。目には見えない心が、誰かをつなぎ止め、掬いあげる。忍びは死と隣り合わせの職業だから、なおさら強い実感があるのか。心の存在とその作用を、信じない訳にはいかなくて。

 医療班の見解はともかく、彼女が信じていれば、本当に彼がここへ戻ってくる気がした。知識や経験則では計れない出来事が起こりうるのが、人生ってやつの興味深いところだ。

 人生だとか神ってのが、どこか俺たちの外側からこちらを見ているのだとしたら、むしろ、試されているのかもしれない。どれくらいの強さで、信じ続けていられるのかを。


「物好きだね」

「どうなんでしょう」


 手首に繋がれた細い管の中を、透明の液体が満たしている。ぽたり、ぽたり。規則的に落下する雫は、カカシ先生の心拍に連動しているんだろうか。

 同じ姿勢のまま動かない三人。窓を閉め切った病室のなかで、唯一その雫だけが、時の流れを感じさせる。


「奈良くん」

「…はい」

「大丈夫だから」


 日常から薄いベール一枚で遮断された病室。ここでは余計な会話など不要だから、交わされる言葉はほんの僅かだ。この場合の大丈夫っつうのは、きっと彼女自身のこと。

 適当な返事を思いつかなくて、肩に触れたままの手に、きゅっと力を込める。そっとそれを離した瞬間に、噛み締められた唇からため息が漏れた。

 そんな苦しげな姿見せられて、はいそうですかって帰れるかよ。身体の横にだらりと垂らした腕の先、無意識で拳を握り締める。俺に出来ることなんてないのに。


「ええ、知ってます」


 けど帰りませんよ。拒否のニュアンスは、言葉にしなくても伝わったらしい。目の前のちいさな背中が、肩を竦めたから。

 こんなとき、第三者っつうのは無力だなと思う。出来るのは、ただ目の前のふたりを見守ることだけだ。もしかしたら、あの時の俺を親父やチョウジもこんな想いで見つめていたんだろうか。

 だとしたら、今の俺は彼女にとっても彼にとっても、邪魔なだけで。それ以前に、存在を意識されてすらいないのかも。

 薬品の匂いで満たされた部屋、微動だにしないカカシ先生は、まるで微笑んでいるように見えた。細く開かれたカーテンから、一筋の陽光。不揃いな銀髪が、光を受けてやわらかい色を放つ。頬にかかる僅かな影は、彼女の身じろぎにあわせてゆらゆらと揺れて。

 目に見えない感情を度外視するなら、光と影の共存する彼らの周りは、しあわせに満ちている。その光景が、未来の象徴であれば――



 信じてるから、大丈夫。 それは強がりでもなんでもなく、彼女のなかにある真実のうちのひとつなんだろう。信じてる、という短い言葉の裏に隠された感情は、言葉ほど単純ではないと思うけど。このふたりの世界は、俺の外側で完結している。




「人間って、欲深い生き物だよね」

「…へ?」

「最初に此処でカカシを見たときには、生きててくれるだけでイイって」

 そう思ってたはずなのに。


 肩をふるわせる背中。目の前で誰かを失うのと、こんな風にもの言わぬ誰かを見つめ続けるのとは、どちらがより切ないんだろう。掛ける言葉が見つからない。


「なのに、いまは…その目に私を映してくれたらと思う」

「………」


 別れの言葉も告げず、突然、傀儡のようになって帰ってきた恋人。そんな空っぽの骸に、ただひたすら向き合う気持ちは俺には分からないけれど。でも、どこかでやっぱり羨ましいとも思う。生きている、それだけで。


「カカシのあの声で名前を呼んでくれたら、って」


 毎日そればかり思ってる。微笑む顔は、まるで泣いているように見えた。彼女はこれからどれだけの期間、彼を見つめ続けるんだろう。終わりの見えないゆるやかな眩暈は、きっと一瞬だけ頭を強打するよりも苦しいんじゃないだろうか。愛する女にこんな顔をさせて、何やってんだよアンタは。

 責めても仕方無いと分かっている。俺の口を出すことじゃないっつうのも。だけど、割り切れなくて。


「何が怖いってね、」

「…はい」

「カカシの声を忘れてしまいそうなのが、一番怖い」


 ゆるく閉じられた彼の唇は、いまにも言葉を発しそうなカタチをしているのに。聞こえるのは、ごくちいさな呼吸音だけ。苦しみも痛みも感じさせない彼の表情が、逆に胸を詰まらせる。


「奈良くんは、覚えてる?アスマさんの声」

「ええ、まあ」


 頭の中にアスマの声が流れ込む。苦み走る表情で吐き出されるため息、諦めと驚きの混ざりあった低音。アスマの声がまろやかに名前を呼んでいた。


「そう……」


 しっかり覚えている。忘れるはずがないだろ。でも――

 俺の覚えているこの声は、本当にアスマの声なんだろうか。腹の底を撫でる低い響き。具体的に思い浮かべようとすれば、イメージが曖昧にぼやけていく。

 あんなに近くで、あんなに何度も聞いた声なのに。鼓膜の奥で再現されかけては、じわりと霞んで。誰かの声を思い出すということが、こんなに難しいとは思わなかった。手が届きそうで届かないもどかしさが、ぐずぐずと燻っている。


「響きって、どれくらいの間記憶に残るんだろうね」


 思考が展開されるのは頭の中のはずなのに、鳩尾の奥で明らかに何かが蠢いている。受け入れ難い事実を前にすると、気分が悪くなるけれど、ちょうどそういう感じ。不愉快な化学反応は、鈍い吐き気をともなって、再び思考を支配する。

 彼女の感じているのもこれと同じ種類の不安なのだとしたら、苦しい。やっぱり心臓を押し潰されそうだ。聞けばすぐに判別出来る自信はあるのに。胃がぎりぎりと音を立ててよじれるようなその感覚を、出来ればもう誰にも味わってほしくはなかった。













 なんて残酷な質問をしてしまったんだろう。目の前の事で頭がいっぱいになって、想像力を失くしてしまうなんて。忍びの風上にも置けない。

 なのに奈良くんの表情も声も、びっくりするほどやさしかった。


「さあ…記憶の濃度なんて測れねえっすから」


 カカシの声が、肌の触れ合う感触が、少しずつすこしずつ薄れて行く。変わらない日常が繰り返されて、外から入り込む刺激の量が増えるたびに、記憶の濃度が薄まって。氷の溶けてしまった炭酸水のように、カカシの存在が淡く滲んで。

 依存している訳ではない、ただ覚えていたいだけ。


「あんなにカカシの声が好きだったはずなのに」

 何故だか全然想い出せないの。ため息をつくように吐き出したら、自分の言葉に心が引きずられる。

 力無く笑う私を、哀しげな双眸が見つめていた。ここで、安っぽい慰めの言葉を口にしない彼だから、傍にいてほしいと思うのかもしれない。


「ごめんね」

「いえ」


 謝罪の意味を、彼は正確に感じとってくれたんだろう。じゃあ、帰ります。さっきよりもっと優しい声がそう告げて、背後から気配が消えた。

 細い指先でカカシの唇を辿る。差し込むひかりで、彼の常人離れした端正な容貌がさらに際立ってみえる。

 その彫像のような完璧な美の内側は、いま空洞なんだろうか。意識のない状態を睡眠と比べるのはどうかと思うけれども、寝ているときと同じように夢を見たりするんだろうか。動かない彼を見つめ続けていると、ただの人形に対峙している気分になる。


「カカシ…」


 呼びかけには、沈黙。分かっているのに、気付けばいつも名前を呼んでいる。口にすればするほど、返事のないことが悲しくなるのに。


「早く起きろ……バカ」


 布団の隙間から覗いたカカシの掌を、これでもかってほどに握り締める。痣になるくらい。


「寝顔を堪能するのにも、いい加減飽きちゃったよ」


 呟いてそっとカカシの胸に頭を預ける。ほら、こうして彼の心臓は脈動を繰り返しているのに。

 メトロノームのようなやさしい規則音は、催眠効果を生むのか。とく、とく。続いてゆく響きに引き込まれる。一秒ごとに底無し沼に沈んでいく。



 カーテンの隙間から入り込む光は、すこしずつオレンジに染まって。あまりにもあたたかい体温に、泣きそうになった瞬間。

 俯せた顔の下で、カカシが小さく動いた――



ひかりかげ
おはよう……ただいま。
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「見えない臓器の名前は」
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