そして俺は、途方にくれる

 からっぽだ――と思った。まるで俺の身体の中から大事な部分が切り取られてしまったような感覚。だから動けない、なにも考えられない。こういう状態を"腑抜け"と呼ぶのならまさにその通りで、からっぽの頭の隅っこをどうでもいい考えがかすめた。"日本語って良く出来てるよな"と。


「でも、私には…」
「んなこと気にする俺だとでも?」
「いえ。そうでは」
「じゃあ…」
「でも、上手くありませんよ」
「謙遜しなくても良いっつうの」


 耳に入り込む会話の意味を、脳は勝手に類推する。よく回ると評される頭が、いまほど憎いと思ったことはなくて。彼女の声のトーンが微かに浮ついていることも、よく知る相手のオトコがやけに慣れていることにも、気付いてしまう。気付きたくもないのに。


「いつもの所、ですか」
「ああ。待ってる」


 さっさと立ち去れば傷も浅くて済むんだろうに。どうせよく切れる頭ならそっちの判断をしろよ、俺。口端を歪め自嘲する一方で、交わされる短いコトバに鼓膜が寄り付いて。息を殺す。にぎりしめた掌のなかで、じわりと滲む汗。

 どくどくと早まる鼓動はたしかに胸のここで脈打っているのに。心臓は自分のものじゃないみたいによそよそしい。遠目にも分かる白い胸元、忍服のスリットから覗く太腿のライン。木の幹に背中を預けて無防備な姿で、尖らせた唇が艶やかだ。

 オトコの明るい髪がさらり、頬にかかって。額を突き合わすふたりの残像が、背骨に絡みつく。身体が軋んでいる。

 苦しいとも違う、悔しいとも違う。勝手なんだけど裏切られたような気分で。多分寂しくて、切なかったんだ。

 あんたが突然、知らないオンナに見えた。



 ふたりの気配が消えたあと、一気に脱力感に襲われる。木肌を背に、ずるりと膝を折って。腰をおろした地面はひんやりと冷えている。湿った草に手を突いて、顎を天に反らす。閉じたまぶたの内側には、彼女の姿。なのにやっぱり、俺はからっぽだ。

 見上げた空が青い。降り注ぐ太陽は、腹が立つほどに優しくて。こんな時くらいは、一緒に陰ってくれればいいのに。なんて、無茶苦茶なことを願っている俺が、ただのアホに思える。

 さっきまで隣にいた誰かを、次の瞬間には失っている。俺たちが生きているのは、そんな世界で。そのたびに腑抜けたように崩れ落ちては這い上がる。失う痛みを知っても、それを理由に感情を抑制出来ないのは、俺が若いせいだろうか。心を注ぐほどに、失うときの苦しさは大きくなると知っていたのに。また俺はやっちまったらしい。

 内臓が切り取られるようなこの感覚は、いわゆる虚無感ってヤツで。正常に機能すべき器官が、すっぽり抜け落ちてしまったように、なにを見てもなにを聞いても、まともに反応できない。心に穴が空くってのは、そういえばこんな感じだった。身に覚えがありすぎる。

 こうなって初めて、あんたへの恋心を自覚するなんて、めんどくせーけど。いつも近くで微笑む顔が、脳裡でちらついて。んないい笑顔見せられたら、なかったことには出来ねえし。仕方ねえ、か。

 ふうっ。肺の中に溜まった澱んだ空気を、思い切り吐き出して。ケツに着いた土をぱたぱたと払いながら立ち上がる。

 考えてもどうにもならないことがこの世には溢れている。ならば、事実を受け入れるだけだ。自覚した途端に失恋ってのも、イケてねー派の俺らしいんじゃねえの。言い訳みたいに呟いて、待機所に向かう。初夏の匂いをのせて、鼻先をぬるい風が撫でていた。






 ◆






 かたり。小さな音を立てて開いた扉の向こうには、やわらかい空気を纏う彼女と彼がふたりきり。彼の正面に跪くような姿勢でしゃがみ込む姿勢は、特別な行為を物語っている。さっきの会話から想像した通りのふたりの姿。この感じは事後、だろうか。

 つうか、なんでよりによって今ここにいるんだ。いつものトコってここかよ。そう思っても、開いた扉は閉じれない。間の悪い自分をひそかに呪った。


「お疲れさまっす」
「おう。どうした、奈良…」


 待機命令が出てっからここに来たに決まってんだろ、邪魔して悪かったな。言えない本音と裏腹に、諦めのため息をひとつ。


「なにがすか」
「何って、その顔」


 俺、どんな顔してんの?

 彼の太腿にそっと置かれたままのあんたの指先が、酷くなまめかしい。いかにも、たった今まで――って感じじゃねえか。


「奈良くん忙しそうだったから、疲れてるんじゃない?」
「まあ…」


 決定的な場面は見てねえけど、このふたりの落ち着きようはなんだ。伽という行為が忍里では慣習として残っていることは知っているけれど、これもその類のモノなのか。過敏反応してんのはガキな俺だけで、物事を割り切れる大人にとってはなんでもない日常なんだろうか?


「ますます眉間にシワ寄ってるよ」
「……っ!」


 空洞だったはずのカラダのなかを、ぐるぐると渦巻き始める疑問。なんで、なんで。どうして。普通はこんなとき、もっと後ろめたそうにするモンじゃねえの?あんたも恥ずかしくねえのかよ。俺に見られてもなんとも思わねえのって、なんでだよ。

 湧き出す疑問を飲み込むように、唇を噛み締める。


「なーんか、お前誤解してんじゃねえの?」
「え?何を……あッ!!」


 ゲンマさんの腕を借りて立ち上がった彼女が、微かに頬を染めて。だから下手だし嫌だって言ったのに。口ごもる彼女に、くつくつと低く笑う彼。

 は?なんなのその余裕の反応。


「誤解って…なんすか」
「奈良の頭に渦巻いてるエロい妄想ぜんぶ、だけど」
「………」
「まあ、あんな姿勢だったから無理もねえけどな」


 全部お見通しっつうことかよ。だとしたら…俺もしかして、とんでもねえ勘違いしてる、とか。


「でも、あれ見てそんな顔するっつうのは…そういうことだよな」


 らしいぞ。ゆらゆらと千本をゆらす彼は、いつも通り悠然としていて。俯く彼女の肩を、楽しげにこつんと小突いた。







そして俺は、途方にくれる

はずれたズボンのボタン、つけてもらってただけなんだけど。



「思春期のガキは想像力たくましいっつうか、なんつうか」
「……奈良く ん」
「…………すんません」


 からっぽだったはずの俺のなかが、今度は真っ白。虚無感の次に俺を襲ったのは虚脱感だった。ホント日本語って難しい――


「さあて、俺はお邪魔みてえだし待機任務はお前らに任せるわ」
 ごゆっくり。
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