しずくの形


 泣くのなんて簡単。そう思っていたのに涙はでないんだ。ひとしずくも。


 しずくの形


 でも、それでも奈良さんが…。さっき偶然聞こえてしまった女の子の声が、消えない。鼓膜の薄い部分から自分のなかに染み込んだように。
 綺麗な子、だった。透き通る涙の雫が、なめらかな白い頬をすべりおちる。濡れた睫毛のまたたきの音が、聞こえた気がした。彼女しか、見えなかった。

「行くよ」

 声も出さずに頷いて、厳しい顔付きの先輩とふたり、夜を駆ける。胸に携えた書状が、急に重たく感じた。

 足りない。まだ自分には足りない。なにかひどく大事なものが、すっぽりと身体から抜け落ちているように。
 その感覚は不意に来て、私を殴り倒した。一瞬で。

 ――お前にはまだ、無理。だって全然足りないから。

 吐き気がするほどの焦燥感に襲われる。なのに、頭だけは勝手な方向にぐるぐる回るのだ。足りないままで。

「そこ。気をつけて」
「…っ、はい!」

 斜め後方のイズモ先輩から、適度に張り詰めた声。それを受けて、意識を集中させる。ちいさなトラップすら見落としそうだった自分を馬鹿にしながら。
 暗闇に細いワイヤーが光っていた。きらり。透明なそれに、樹木の隙間から降り注ぐ月光。

「珍しいね」
「すみません」
「具合悪いんなら帰っていいよ」
「大丈夫です」

 イズモ先輩の呆れた顔。そりゃあそうだろう自分だって呆れる。大事な任務の最中なのに、正体のわからない感覚にとらわれているなんて。よほどのバカか、覚悟のないただの子供みたいに。
 きっと今、自分のなかで渦巻くものは、見当違いだとどこかで思っている。降ってきた焦燥が、意志とは無関係に暴走するから、悲鳴のように胎内では歯車が軋む。
 居心地が悪い。これが何なのか、この先もずっと分からないままなんじゃないかと思った。
 分かるといっても、分からない何かに適当な言葉を与えて、自分のなかで納得させるだけ。結局、足りない私の納得だとか満足は、いつまでたっても不完全。任務中に考えることではないけれど。

「また、ため息」

 振り返れば、困った子を見るように眦を下げるイズモ先輩。任務に支障が出そうだと懸念されている。そうは口にしない彼だけど、口にされないからこそなおさら恥ずかしい。
 すみません。謝って笑顔を貼付ける。息を吸い込んで、はきだして。奥歯を噛んでみた。いまは目の前のことだけ考えていればいい。

「もう、大丈夫です」
「数時間で終わるから」
「集中 します」
「ああ。頼むからそうして」

 ぐずぐずと燻る感情に蓋をして、まっすぐ前を見た。





 精神のコントロールには、自信がある。そう思っていたけれど、それも任務が終わるまでだった。里の大門をくぐった途端に、堰を切ったようにあふれだすため息。あまりに露骨過ぎて、自分でも驚いた。どれだけ我慢していたんだろう、私は。

「もういいよ」
「……すみません」

 詫びる言葉は、繰り返すたびに嘘くさくなる。ほかにはいうべきことは何もないのだから仕方ないけど。
 だいたいイズモ先輩は鋭すぎる。たった一秒、視線を横に流しただけなのに、たぶん全部気付いているんだ。隠しても。
 顔を前に向けたままの彼は、どこかずっととおくを見るように、黒い瞳を眇めている。きっと見えない方の片眼も、同じところを見ている。

「気にしすぎじゃない」
「なにが、ですか?」
「なにもかも、だよ」

 らしくない。続くイズモの声には、返事をしなかった。できなかった。
 そう、なのかも知れない。普段の自分なら気にしないことだから。ため息すらもらさない、とるに足らぬこと。
 無意識で他人と比べてしまうのは、私たちが競争原理のなかで生かされてきた弊害。でも、それを何よりも嫌悪していたはずの自分が、いまはまさにそれに捕われている。必死で否定したって、そうなんだからしかたない。

「そんなに気になるんだ」
「……どう、なんでしょう」
「少なくとも俺にはそう見えるけどね」

 駆けるスピードを緩めたイズモ先輩が、ふわり、髪を撫でる。どうして急にそんな。不意打ちの優しさは狡い。先輩はいつもずるいんだ。大きな掌は、心まで撫でる。

「泣けば、いいんじゃない」
「無理です」
「じゃあ、笑えば」
「それも無理」

 思い浮かぶシーンは、里を出る前に偶然見た一瞬。
 シカマルの胸に縋って泣きじゃくる女に心を打たれた。嫉妬、ではなくて、羨望でもなくて。きれいな光景だと思った。可憐な花が野を吹く風に揺れるのを見れば、ふっと心がゆるむ。ちょうどそれと同じ感じ。
 自分は彼女と同じくらいにシカマルを想えているんだろうか。きっと私はあんなふうに泣けない。

「あいつはそんなこと、考えてないと思うな」

 比べるなんてバカバカしいしお前はお前、だろ。するりと夜にまぎれる丸い声。

「私は…わたし」
「ちなみにあの時、シカマルはお前を見てたよ」

 狡い先輩は、そう言って笑う。
 泣くのも笑うのも無理だけど、息が苦しくなった。うすい酸素のなかで、あえぐ私。


しずくの形
その顔、あの子よりずっとないてる
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