やさしくてせつなくて、
てのひらの熱に。その温度差に、
焦る心と、逸る俺。
やさしくてせつなくてそうして、 かなしい。って言葉があるじゃない。奈良くんにとってそれは、どういうもの?
「……なんすか、急に」
「急に、じゃないよ。ずっと」
ずっと前から考えてた。そう言って微笑みを浮かべる彼女の、透き通る横顔に見惚れる。
ふたりきりの図書処。目の前には大量の文書。ひとつひとつに目録をつけてリスト化して、また元の場所に戻す。そんな単純作業の最中の戯れ事だろうか。
その問いの意図ををシンプルに捉えるならば、言語の意味。
かなしい。
悲しい。
哀しい。
愛しい。
カナシイ。
かなしい、と発音する単語を頭のなかで並べてみる。ぜんぶ、心が動くこと。物事になにかを感じて、心の動くさまを現す言葉だ。
だけど、彼女が俺から聞き出したいと思っている事は、辞書的な言葉の定義とか、そういうモノではない気がする。
「考えたことない?」
「ねえっす。いわゆる言葉遊び的なモンっすか、謎かけ…とか」
手を動かしながら、頭の半分だけを先輩のほうへ向けた。
この人はいつも、良く分からない人だ。奇を衒うでもない平易な言葉を使っているのに、やっぱり今日も分からない。
わかりやすすぎてつまらない毎日よりは、ずっといいのかもしれないけれど。
不思議な言い回しでワザと気を惹こうとするのとも違う、媚びるわけでもからかうわけでもない、独特の空気を纏っているオンナ。
「違うよ。何か、」
「………」
「かなしい、な。奈良くんなら分かってくれる気がしたのに」
残念。そう言って、また微笑む。切ない顔。
そんな表情をみせられたら食い下がりたくなるのは、俺が彼女にもっと近付きたいと思っている証拠なんだけど。
気付かれたくないから、手元に視線をおとしたままのポーカーフェイス。
もくもくと手を動かし続ける。
かなしいな。濁りのない、澄んだ声が鼓膜の内側でリピートされる。すこしも悲しそうじゃない、いっそやさしい声。
「説明してくださいよ」
どういうニュアンスの質問だったのか。
「ムリ」
「…なんで」
「言葉にすれば別のものになるから。言葉では説明出来ないこと、だから」
「なんだそれ」
「だよね。自分でも何言ってんだろって思う」
何考えてんのか全然分かんねえし。問い掛けの答えを期待していなかったわけでもなさそうだ。
やわらかい笑みを浮かべたままの顔が、すこし、ほんのすこしだけ陰る。そんな顔を、愛おしい、と思った。僅かに眇められた瞳の形が心に染みる。鳩尾の奥がぎゅうっと詰まって、眉を顰める。
やわらいだ表情の内にあるもの、掴みどころのないぼんやりした、でも確実にそこにある想い。彼女の伝えたいことを汲み取れない自分が悲しい、と思った。また鳩尾の奥が締め付けられる。眉間のシワが深くなる。
いま自分のなかで起きている変化はなんだろう。心の襞を撫でられ、心臓の薄い膜を外側から握り潰されるような、この感覚はなんだろう。じわじわと身体の芯まで染みて、体内の酸素を薄めるような、呼吸を浅くするような、この感覚はなんだろう。愛おしいと悲しいは似ている。
「じゃあ、先輩にとっては。かなしいってどういうモンなんすか」
顔をあげたら、優しい瞳にぶつかった。なんだ、その顔。
また胸がぎりり、と締まる。
息が苦しくなる。
ため息がこぼれる。
苦しい、切ない、愛おしい、いとしい、愛しい、かなしい。
ああ、そうか。彼女の言いたいのは、こういうこと。
心はここにある。俺のなかにたしかに。かなしいは、きっとそれを確かめるためのコトバ。
「私にとってのかなしいはね、」
あざやかなその顔、澄んだ声。
筆を持つ俺の手に、そっと触れた細い指先の熱。
さらさらと紙の上をよどみなくうごいていたはずの手が、いつの間にか止まっている。彼女の肌がふれている。
どくん、どくん。上がっていく脈拍。汗ばむ掌。
「たぶん、こういうこと」
首筋にひんやりとした腕が伸びて来て、ふわり、甘い香りに包まれる。
息が、止まる。声なんて出せるわけがない。
「ね、わかる?」
んだよ…その不意打ちは。
抱きしめられている、彼女に。オンナに抱き締められている俺。
動くとか喋るとか、そんな機能がぜんぶストップした代わりに、見えないところで泡立つ細胞。意味のないことばかり繰り返している脳内。
シカマルの頭の奥では、声にならない抗議の台詞がぐるぐると回り続けていた。
やさしくてせつなくてそうして、かなしい(先手打つなんてずりぃっすよ、まじで。俺の方が先に、と思ってたのに)