さまよう視線
朝から雨のせいなのか、昨日より随分涼しく感じる。外に出した観葉植物の葉を濡らす雫。鮮やかさを増したグリーンがすがすがしい。
こんな日は初めてカノジョがここへ来たのを思い出す。あれも、霧のような細かい雨が降る日のことだった。通り雨にふられた姿が、やけに印象的だと思ったのは俺だけではなくて。いまではしっかり、あの人は店長専属になっている。店の中でも、外でも。
「昼一あけといて」
「カノジョさんすか」
「まあな。襟足のびてきてうっとおしいんだと」
たまには伸ばしゃいいのに。
面倒臭そうな声を出してはいるが、不知火店長の頬は緩んでいた。ちなみに今日はシカマルが休みだから、スケジュールはぎちぎちだ。
「でも、短いのお似合いっすよね」
美容師と付き合っているからと、彼氏の言うなりに髪を伸ばしたりしないところがいかにもカノジョらしい。ゲンマさんってどんな髪型がお好きなんですか?お任せでお願いします。そう言って店長に纏わり付く女の子たちとは、そういうところが違っている。
「昼一はご新規のお客様なんで、俺いきますね」
「すげえ可愛い子とかだったら代われよ」
「マジっすか?」
「マジマジ。犬塚にそんな子回せねえだろうが」
冗談だか本気だかわからない台詞。いつもの店長だ。
そんなこと言って、カノジョはゲンマさんにしか髪の毛を触らせねえじゃん。
不思議に思っていつか聞いてみたら、男の人に髪を触られるのは苦手なの、だって。最初にカノジョにふれたのはシカマルだったと思うんだけど、あれからはたしかに殆どゲンマさん以外触れていない。
潔癖症というのとも違うみたいだけど、カノジョいわく頭に触れられるってことは自分の全てを委ねるってのと似てるからって。何となくわからなくもねえけど。
「聞いてんのか、犬塚」
「はい。でも、そうなったら俺が代わりにカノジョを?」
「ばーか。んなことさせねえよ」
お前にはせいぜい、クロス付けさせるか、切った髪の掃除。ドライヤー位ならかけさせてやってもいいけど。
「じゃあどうするんっすか」
「どうにかするっつうの。気にすんな」
◆
結局新規の女の子はゲンマさんの御眼鏡に適わなかったのか、それとも何か考えがあるのか。問題もなく俺が担当することになって、ホッとしたのもつかの間。席に案内してちょうど俺が声をかけようとしたとき。
「いらっしゃいませ」
店長の不知火です。隣から低い声が聞こえて来て、俺まで肩が揺れた。
ったく女の子には目がねえんだから。普通にしててもカッコイイのに、そうやって意識的に自分を演出している時のゲンマさんは無敵だ。男の俺でもうっとりすることがある。いや、俺にはそんな趣味なんてねえけど。
案の定、鏡越しの女の子はうっすらと頬を染めてゲンマさんに見惚れている。もうすぐカノジョさん来るんじゃねえの、いいのかよ。ちょっと不安になったのと同時に、後ろで扉の開く気配がした。
「スタイルの相談は俺が受けとくから、犬塚あいつを案内してやって」
「店長?」
「カットはお前に任せるって」
で、どんな感じにしたいの?
思いっきり営業スマイルを浮かべたゲンマさんは、お得意の低音ボイスで耳元囁き作戦中。カノジョに見られてんじゃねえの、それともわざと見せつけてんのか?何の為に?疑問の渦巻く頭を抱え、ため息をひとつ。
店の入り口に向かえば、カノジョはゲンマさんのそぶりなんてまったく気にしていない様子でやわらかい微笑みを浮かべていた。
なんなんだろう、それって。信頼関係ってヤツ?それとも大人の駆け引き?俺には全然わかんねえわ。ふたりのことだから、口を出すつもりもないけど。
「犬塚くん、こんにちは」
「ちわっす。こちら、どうぞ」
「ゲンマは…相変わらずなんだね」
相変わらずって言いながら微笑んでいるカノジョを、ゲンマさんのいる隣の席に案内する。
鏡の中で一瞬だけふたりの視線が交わった。ような、気がした。
◆
なんだかんだで結局、カノジョの髪に触れたのはやっぱりゲンマさんで。俺は宣言通り、カットクロスをつけさせて貰っただけ。ふわふわの猫みたいな毛にブラシを通そうとしたところで、割り込んできた店長に場所を奪われた。
別の女の子の髪をさわりながら、隣のふたりが気になって仕方がないなんて、職務意識はどうなってるんだと言われそうだから秘密だけれど。
ほとんど会話もないままに、シャキン、涼やかな音を立ててふるわれる鋏の動き。時折鏡越しに見つめ合っているふたりの視線。時折聞こえない位小さな声で耳元に囁かれるコトバ。それに頷いたり首を振ったりするカノジョの仕草。そんなものが、なんだかひそやかな大人の情事を覗き見ているような気分にさせられる。
ただ、髪切ってるだけだっつうのに。なんだ俺のこの妄想力。
「シャンプー台に移動、よろしくな」
「……」
「おい、犬塚?こいつ、シャンプーの準備してやって」
「え、あ…はい!」
「なにボーっとしてんだ、お前のお客様の仕上げは俺がやるから」
お待たせしてすみません。
さっきカノジョと交わしていたのとは違う、完璧な営業スマイルが店長の顔に張り付いている。
「ありがとう、犬塚くん」
「いえ」
「なんだか今日はぼんやり?」
「はい…い、いいえ、んなことねえっすよ」
「そう。じゃあいいけど」
ああ見えてゲンマって結構人使い荒いから、ちゃんとお休み貰ってね。
「交替でちゃんと休んでます」
「奈良くんは、今日休みなんだ」
「ええ。あいつもずーっと休んでなかったんで」
「ヘアーショーとかで、忙しそうだったからね。先月」
「そうなんっすよ!でもお陰さまで賞も頂いたし」
椅子に案内して、ブランケットを掛けて、チェアーの角度を調整して。
そっと支えたカノジョの切りたての襟足は、ちくちくとやわらかい刺激が心地よかった。
「おめでとう。頑張って」
「うす!」
顔にガーゼ、どうしよう。このままの方がいいのか?
「犬塚、いつまでお喋りしてんだ」
あっちのお客様もシャンプーして差し上げろ。そこは俺が変わるから。
そう言って近づいてきたゲンマさんが、後ろの新規客を指差した。
◆
シカマルも自分の彼女にシャンプーする時には、ガーゼを置かないままだったりするけれど、ゲンマさんもそうらしい。
あいつの場合は、そっと目を閉じている彼女の姿を観察するために、だと思うけど。だっていつも、それはそれは優しい顔で彼女を見ている。そんなシカマルの表情を見せられたこっちが照れちまうくらいに。
でも、ゲンマさんは?同じくガーゼ不在のままでシャンプーに入った様子をそっと隣から盗み見る。
手だけは完璧な動きを続けているけれど、彼の視線は店内全域に注がれたままだ。カノジョの姿を見たいからじゃなければ、何故ガーゼをしないんだろう。
熱くねえか。どこか流し足りない所は。時折、質問のたびにカノジョへ視線を戻すけれど、そんな時にはカノジョの瞳はゆるく閉じられている。見つめ合っている様子はない。それ以外の店長は真剣な表情でドアの開け閉めだとか、店内の誰かの言葉に集中している。そうやってるとやっぱり店長なんだよな。
って、俺。今日はなんでそんなにこのふたりの事が気になってんだ。
「ありがとうございます」
「ありがとうございましたー」
響くライドウさんの声に合わせて、出て行くお客様に声をかけて。手元に視線を戻す瞬間。
ゲンマさんの真面目な表情を、そっと見つめているカノジョに気が付いた。
◆
「もしかして、ゲンマさん」
「ん?」
「カノジョさんの顔に布被せずにシャンプーするのって」
「ああ、バレた?」
奈良とは全然違う理由だけどなあ。
さまよう視線あいつに見惚れさせてやってんだよ
口元を歪めるゲンマさんの顔は、余裕たっぷり。
見惚れさせるも惚れさせるもなにも、すでにふたりは両想いってやつじゃねえの。誰が見ても。
やっぱり大人の恋ってやつは、俺にはまだよく分からない――
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2009.09.11
salon de coiffeur続編