その背中へあいのことば

 お前の眼に、俺は、どう映っているんだろう――そんなことを思ってしまった時点で、きっと俺の負けは決定。
 
「分かった。仕方ないね」
「本当にいいんですか?」
「ああ。今日は付き合うよ」
「ホントに?」

 驚きのはりついた表情のなか、大きな瞳がいつもより存在感をしめす。
 透き通るような白目の、限りない白。そのなかで、濃いブラウンの虹彩に俺が映っている。緊張感の欠片もない猫背のオトコ。エロ本片手に、ゆるんだ顔をした、ただのオッサン。

「いつかは飲みたかったんです、先生と」
「物好きだねぇ」
「そんな。皆そうだと思うな」
 いつも断られてばっかりだから、意地になった所もあるけど。

 懲りもせず何度もなんどもかけられる誘いを、断ってきたのには理由がある。
 危機察知能力だけは昔からかなり長けている自覚があったから。他人の好意はうまくかわすに限ると、経験則が告げていた。
 だけど、今日は受け入れている。なぜか。

 意地になって何度も乞われる誘いは、いつも嬉しかった。
 じゃあ、またね。いつか絶対また。その「また」が、本当に約束された「また」じゃないこと。未来は絶対的なものじゃない、明日がくるかは分からない。そんなのずっと前から知ってたのに、どうしてだろう、今夜はやけにその感覚にとらわれて。
 これを逃したら二度とお前に誘われることはないのかも、と、べつの意味で危機察知能力がはたらいたらしい。

「だいたいお前まだ未成年でしょうが」
「そこはほら、片眼をつぶって」

 誰かの好意を感じとっては、さらりとかわす。それは相手のためと言うよりは、いつも自分のためだった。

「何でまた、俺と?」

 なのに、こんな問いかけを自分から発してるなんて。俺はバカなんだろうか。教え子につけいる隙をみずから与えてるようなモンだ。
 もしかしたら、そろそろ付け入られたかったのかな。俺は。
 誰かとつながりを濃くすることは、面倒な感情を引きおこすモンだと知っているくせに。だからいつも、本のなかで人間関係の疑似体験をするだけにとどめてきたのに。

「聞きたいことがあって」
「へえ。だったら飲まなくても聞けばいいじゃない」
「酔いで感覚が麻痺してるほうが、本音がぽろっと零れたりするじゃないですか」

 ぽろっと零してほしい本音、ねぇ。やっぱり話は予想通りの方向に流れているみたいだ。
 カツンとジョッキを合わせながら、飲む前から動悸があがっている。
 どんなこと聞かれるんだろう。好きな人はいるんですか?恋人は?私のことどう思う、とかその類のことだったりしたら。いままでずっと避けてきた俺の努力は、いっきに水の泡だ。そんなことになったら、明日から俺はどんな顔をしてお前に会えばいい。だけど今日のこの時間を受け入れたのは、俺。
 勝手にドキドキしているカカシの耳に入り込んだのは、予想とは全然違う言葉だった。
 
「なぜいつもその本を読んでるんですか、」
「へ?」
「イチャイチャシリーズ。そんなに面白いの?」
 それとも飢えてる、とか?

 似たような質問はこれまでにもたくさん受けてきた。なのに彼女の言葉が、深く刺さったのは、きっとその透き通る白目のせい。
 それにしても、飢えてるはないでしょう。

 カカシ自身、一般的にいかがわしいとされるその本に固執する理由を意識したことがないわけではなくて。簡単に言うなら、その本が単純に読み物として面白いから。
 十八禁と銘打った本のなかには、単なる官能小説以上のものが詰まっていた。これを読んでいると、ヒトというのは面白い生き物だなと思う。

「面白いよ」
「やっぱりそうなんだ」
「ああ」

 文字から受ける刺激が、脳のなかでどんな動きをするのかはわからないが、非常にたかぶった状態でそれに接すれば、ひとつの章を読みおえるころには不思議なほどに体内が凪いでいる。ココロがみたされる、というのだろうか。よくできた文章にはきっと精神安定剤、的な作用がある。
 もちろん性的に刺激を受ける、という目的で読んでも、その役目を十分果たしてくれるものがそこには在る。まず間違いなくヌける。ヘタな映像よりもずっと官能的だと思うためには、読み手の側の想像力の発達度合がためされるものだとは思うけれど。そういう意味では、自分はなかなかに想像力に長けた部類に入るのだろう。

「ホントに面白い。人生の指南書としてね」
「シナンショ、ですか」
「ああ、奥が深いんだ」

 交わると一口にいっても、その行為にはいくつかの種類がある。
 文字通りの身体と身体の交流。
 身体と心も併せての交流。
 心同士の交流。
 教え子に稽古を付けてあげるのもセックスと似たようなもので。単純に義務として身体と身体をぶつけ合うこともあれば、そこに何らかの想いを交えることもある。強くなって欲しい、強くなりたい。そういう想いを動作にのせて交わし合っているのだ。
 すきだ、あいしている、かわいい、こわしたい、たべてしまいたい、お前が欲しい。たべられたい、溶けたい、くるしい、愛しい。言葉にならない想いを、繋がることで交わし合うのとおんなじ。

「ただのエロ本じゃないんですねぇ、やっぱり」
「違うね」

 イチャパラはその十八禁という側面ばかりが強調されているけれど、俺にとっては究極の人との交流術が描かれた本なのだ。ヒトの持つ綺麗な面や汚い面を最もわかりやすく表現した場が、たまたま生殖行為のシーンだったというだけで。自来也先生にとっては、背景はなんでも良かったんじゃないだろうか。
 たしかにあの行為には、世界の全てが凝縮されているものだけれどね。

「じゃあ、私も読んでみようかな」

 いつのまにか大人の女の空気を身につけた教え子が、隣で琥珀の液体を飲みくだしながらぽつりと言った。唇がしっとりと濡れている。

「だめ!」
「なんで」
「お前にはまだ早いから」

 人生の指南書だ、なんて偉そうなことを言っておいて、読むのを止めるのは矛盾してるなと自分でも思うけれど。

「でも、もう十八だよ」
「とにかく、だーめ」

 俺の前をするりと横切って、カウンターに置きっ放しだった本に伸びてきた白い指。焦りを隠したままお前のその指を払うと、本を胸に抱えて背を向けた。
 だってお前にはまだ早すぎる。四十八手とか、異性を悦ばせる方法とか、人間の欲望のどうしようもない汚さとか、そんなのお前はまだ知らなくていいんだ。
 さっきふれたお前の体温を、俺がくりかえし頭のなかで反芻しているとか。たったそれだけで、欲情してるとか。男ってのはそんな単純なものなんだとか、知らなくていい。



「“その代り、実践でためしてみる?”くらい言えないの?センセーの臆病者」

 背中にふってきたちいさな声。
 店の喧騒にまぎれて、聞こえないくらいのかすかな響きだったけれど、俺の耳はいつでもどこでもお前の声を掬いあげる。

 ああ、やっぱり俺は。
 最初から負けている。

 強がるその声が愛しくて、ふるえるその声がいとおしくて。振り返ったら耳をほんのり染めたお前がそっぽを向いていた。
 たしかに俺はいま負けているけど、この先ずっとそうなのかは、お前が自分で確かめればいいよ。じっくり、時間をかけて、気付かせてあげるから。

 ひとまずは、宣言。



その背中あいのことば

ハードな実践だから、覚悟しといて
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