しあわせのあおいとり

 背中と背中を合わせたまま、かれこれ1時間と38分ほど。ひとことも会話がない。
 正確にいうならば、自室でひとり将棋盤に向かっていた俺の背中に、突然あらわれた彼女が自分の体重を投げ出して寄り掛かったまま黙りこんでじっとしている。重たくはなかった。じんわりと温かい背中がときおりふるえる。
 パチン、パチンと駒を動かす音だけが部屋にひびいていた。しずかだ。

 幼なじみがこういう風に所在なげにしていれば、あれこれ尋ねて心配するのが普通なのかもしれない。でも、シカマルは黙っていた。ずっと、黙ったまま背中を貸していた。
 駒を動かすため腕を持ち上げるたび、彼女の背中はやわらかくしなる。しなって俺の動きに追従する。ぴったり寄り添うように。それが心地好い。
 それだけで、いまは充分なのだと思った。背中で少しだけぬくもりを分かち合う。それだけで充分。過剰なやさしさは、時として凶器にもなるものだ、と俺は知っているから。

 パチン。右腕を伸ばして、盤上を泳ぐ。右の肩甲骨あたりで、彼女の背中がちいさく傾いだ。

 そもそも彼女は、他人に甘えるのがとても下手なのだ。下手というよりは苦手と言ったほうが正しいかもしれない。ひょっとしたら甘えたいという欲すら、自覚したことがないのではないだろうか。とにかくいまは、甘やかしてほしくない空気を全身に纏わり付かせたままここにいる。

「シカマルー」
「んー?」

 そのくせ、俺が甘やかしたくて仕方なくなるような声で名前を呼んだりするから、たった一言で意識がそっちに持っていかれるのだ。
 甘やかされたくないオーラに、甘やかしたくなる声。二つを天秤にかけながら将棋盤に目を据える。次の手なんて、すっかり頭から飛んでいる。本当は背中につたわる呼吸だけに夢中だ。悔しいから、顔にも態度にも出すつもりねえけど。

「なんでも、ない」
「ああ」

 そうやって、いともたやすく俺の意識を引き寄せるくせに、本人はまったくの無意識っつうのがタチ悪ぃよな。これでは幼なじみという微妙な距離を崩して踏み込むこともできやしねぇじゃねえか、と全力で委ねられている背中を少しだけ押し返す。ささやかな抗議をのせて。

「重い」
「悪ぃ」
「悪いと思ってないくせに」
「ばれたか」
「ばれるよ」

 ふ、と破顔する気配がうしろから俺をつつみこむ。ばれている、というならお互い様。彼女のメンタルの些細な揺らぎもこちらにはすっかり筒抜け。気付いていて、気付かないフリをするのには慣れっこだ。

「シカマル」
「んだよ」
「“恋愛とは、ふたりで馬鹿になることだ”って名言があるじゃない」
「聞いたことねえな」
「私も、誰が言ったのかはぜんぜん覚えてないけど」

 こうやって弱るたびにお前が俺のところへ来るのはなぜだ、とずっと前から思っていた。傷つくたびにここへ来て、傷付いた顔をさんざん見せておいて、ひどく癒された顔で帰っていく。それは、なぜだ。

「いままで散々恋したと思ってきたけど、結局私のはただの一人馬鹿でしかなくて、二人で馬鹿には一度もなれなかったなあって」

 そうやって無邪気に、俺とは関わりのないところで完結しちまってる恋の話をするのはなぜだ。部外者の俺に向かって。

「もしかしたら恋愛ですらなかったのかもしれない。あれもこれも、恋愛以前のおままごとみたいなものだったのかもしれない、って。そんなことを考えてた。いいお天気だから」
「ああ」

 窓から入り込む陽射しがやわらかく肌をさす。小春日和の午後。

 もしも、馬鹿だというのなら。

 自分が想われていることにも気付かずに、そんな残酷な話をもちかける彼女は馬鹿だ。そして、惚れた相手の恋愛話を黙って聞きつづけている俺はもっと馬鹿だ。大馬鹿者だ。
 幼なじみのボーダーラインを越えられずに、うろうろとさ迷いつづける馬鹿者ふたり。

 でも。
 それも、もうそろそろ終いにしてもいい頃合いなんじゃねえの。


「馬鹿だね」
「馬鹿だな」
「"鹿"丸だけに、ね」
「俺だけかよ」
「私もだけど」
「つうか、漢字で呼ぶなっつうの」

 くつくつと揺れる背中を預け合ったまま、どちらからともなくてのひらを探る。見えないままに繋いだ指をゆっくりたしかめて、伸ばしていた背中から一気に力を抜けば、支えを失った彼女が仰向けに倒れ込む。

「シカマルひどい、急に」

 床に衝突するぎりぎり寸前で受け止めて、そっと横たえると上から見下ろした。はじめて、彼女を上から。
 ばらけた髪が床に広がって、無防備なまま彼女は俺を見上げる。つまり、組み敷いている。

「急にじゃねえよ」
「………」

 驚いたように見開かれた大きな瞳をみつめながら、俺自身はもっと驚いていた。どくどくと脈打つ胸をコントロールできなくて、さっきまでの穏やかな気持ちは一瞬で消えうせる。

「急に、じゃない」

 繋いだままの指を絡めて切迫した声でそう言えば、きっと呆れるか怯えるかされると思っていたのに。彼女は、ガキの頃からちっとも変わらない吸い込まれそうな瞳を、ふわっとやわらかくゆるめる。びっくりするくらい優しい顔になる。

「…ん」
「待った」
「うん」
「すげー待った」

 彼女が俺の腕から逃げようとはしないことに、ひどくホッとした。と同時に、上目遣いのほほ笑みが、愛おしくてたまらなくて。産毛の残るむきだしの額に、そっとくちびるを落とす。

「…ん。待たせてごめん」
「遅せーよ」
「馬鹿だよね」
「だな」
「ひどい」
「自分で言ったんだろ」
「そうだけど」

 鼻先をぶつけながら少し笑って、瞳を交わらせたまま名前を呼ぶ。めずらしく甘えるように身を寄せる彼女を、痛いくらいに抱きしめる。

 何年待ったんだろう。
 いったい何年、こうすることを夢に見てきたんだろう。

「シカマル…」

 名前なんて幾度も呼ばれ慣れているはずなのに、その声があんまりあまく和らいでいるから。胸がぎゅっと詰まって、ルの形で固まったくちびるの端を啄んだ。
 それだけじゃ全然足りなくて、貪るように飲み込んだ。何年も何年も前からの想いをぶつけるように、何度も。なんども。意識がどっか行っちまうくらい、何度も。

「…苦し」
「バーカ」

 んな簡単にやめてやらねえよ。
 むせるほど重ねたくちびるが、鈍い痛みを寄越してもやめねえ。お前がいやだと身を捩っても、泣いても、もう止まらねえ。だって俺は馬鹿だから。そんな俺に隙をみせたお前は、もっと馬鹿だから。

 ぎゅうぎゅうと押し付け合っていたむねとむねを一旦剥がして、少しはなれた所から彼女を見下ろす。ほんのり染まった目元を見れば、ざわめきがぶり返す。
 息をするのも面倒臭ェくらい毛羽立つ神経とは裏腹に、心は不思議なほどおだやかに凪いでいた。


しあわせのあおいとり
仕方ねえから一緒に馬鹿になってやる
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2012.01.23
恋愛とは二人で馬鹿になること、らしいですよ。
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