眼鏡外して額にキス

 走る。走っていた。理由も状況もわからないまま、深夜の繁華街を必死で走りつづけているのだ。追われているわけでも追いかけているわけでもないのに、ハンパない速度で走るにはきっと理由があるはずだと思う。だけど、まったく心当たりがない。
 変な感じ。
 でも、私はいま走らなくちゃならないのだ、ということだけは何故かわかっていて。それはもう、神様からの啓示のように、とにかく走る。

「………」

 誰かに呼ばれた気がして振り返る。でも、誰もいなかった。
 走る。周りの景色は飛ぶように移り変わる。夜の繁華街から、朝の静かな森へ。どこかの学校の屋上(そんなところを走るなんて変だとは、まったく思わない自分が不思議だけれど)から、夕暮れの河原へ。

「………!」

 また、誰かに呼ばれた。聞こえた声はかすれて不明瞭。でも私の名前だった、たぶん。
 振り返っても誰もいないのはわかっている。ゆっくり首の向きを変えるけれど、やっぱり誰もいない。それもおかしな話だ、私以外の人間が誰もいないなんて。でも私は走らなくちゃならない。
 持久力なんてこんなにあったかなと思いながら、走り続けて。息もみだれていなければ、汗もかいていない。
 走りすぎてだんだん自分がまわりの景色に溶けはじめる。両腕の先がゆるやかに空気と同化して、形はあるのに消えているような感覚。でもどこかで知っている感覚。体温が空気と混ざり合う。なびく髪も風に絡みあって溶けていく。吐き出す呼吸が、じわりと滲む。

 このまま溶けて消えてしまうんじゃないか、と思った。この世界に飲み込まれるように溶けて、消えてしまう。
 そう思ったら急に怖くなった。
 シカマルにもう会えないんじゃないか、それが怖くてたまらなくなった。シカマルの記憶を、身体はまだ覚えているのに。さっきまで私のなかにいた彼の体温を、まだ肌は記憶しているのに。
 誰もいない街、森、学校、河原。誰もいない世界。私以外のみんなは、もう、消えてしまったんじゃないだろうか。
 もつれた脚が、空を切る。ぬるい空気に包まれて、身体の感覚が消えて。いくら走っても息がみだれず、汗もかかないのは、自分がほんとうはもう消えてしまっているからなんじゃないかと思った。シカマルも、もう、消えてしまったんじゃないか、と。

(シカマル…)

 呼びかけた声は音にならない。唇はたしかに動いているのに、声だけが出ないのは、思ったよりも苦しい。
 吐き出せなかった名前が、咽喉の奥のほうにひっかかる。

(シカマル……)

 呼ぶたびに鳩尾あたりに名前がひっかかって、降り積もる。何度もなんども名前を呼ぶ。名前と一緒に想いが積もる。堆積してゆく。
 目の前が真っ暗になる。閉じた視覚のなかで、もがくように手足をうごかし続ける。名前を呼び続ける。消える。もうすぐ、なにもかもが消えてしまう。形も感覚も記憶もすべて。
 びっくりするほどやわらかい表情で私を見下ろしていたシカマルも、そっとそっと壊れ物に触れるように頬を撫でるシカマルも、掠れた声で私を呼ぶシカマルも、眉を顰めて私のなかでゆれ続けるシカマルも、掻きむしられるような愛おしさも、とろけて混ざり合う瞬間の自分のなかがまっ白になりそうな感覚も。ぜんぶ、消える。

(シカマル!)

 空気に包まれて自分が消えていく感覚は、シカマルとぴったりくっついてひとつに溶けていく感覚にすこし似ている。もう自分が走っているのかどうかもわからない。
 足掻くように前へ前へ。手をのばして空をつかむ。空気を掴めるわけがないのに、指の間をあたたかい感触がかすめた。
 形の消えた世界では、形のないものに形があるんだろうか。手の平はなくて、空気は硬い感触。めちゃくちゃな理屈にも疑問を感じないのは、この世界のすべてがヘンだからだ。だっていまも、空気が私の指を掴んでいる。
 この感触を、よく知っていた。

(…シカマル)

「…………ぶか」

 また、呼ばれた。ひどくやさしい声が私の名前を繰り返す。もう、走れない――


「大丈夫か」
「………ん?」
「すげえうなされてたけど」
「………シカ」

 明かりの消えた彼の部屋には、ブラウン管からもれる青白い光。画面はしずかにエンドロールを流していた。
 頭の下には彼の肩。手の平はしっかりシカマルに包まれている。
 映画を見ながら、うたた寝してしまったらしい。気づいたらほっとした。深いためいきをひとつ。

「疲れてんだな」
「なんか、走ってた」

 ああ。相槌をうちながら、シカマルが髪を撫でる。

「走って走って怖くて消えそうで」
「そんなシーン、映画にもあった」
「怖かった…声もでなくて」

 くつくつと喉を鳴らし、シカマルは低く笑う。滅多にかけない眼鏡の奥で、鋭い黒目がやわらかくゆるんでいる。また、この顔を見られてよかった。ほんとに、ほんとうに。

「夢でよかった」
「声、出てたけど」
「うそ…!?」
「まじ」
「……」
「あんな顔で何度も名前呼ぶなんて、反則」


眼鏡して額にキス
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