懐古的欲情


 はじめて手を繋いだのは彼だった。
 はじめて自転車にふたり乗りしたのも、ほっぺにチュウされたのも、おんぶしてもらったのも。家出という名の冒険をしたのも、口をきけないほどの喧嘩をしたのも。
 私のはじめては、いつもシカマルと一緒で。この前は、はじめていっしょに学校をサボった。
 だけど。この先の階段をのぼるのは、なかなか難しいものらしい。



「帰ったら、試験勉強だな」

 そうだね。相槌をうちながら、シカマルの背中に手を添える。

 学校からの帰り道。自転車はぐんぐんスピードをあげて、坂道を下る。もうふたつ角を曲がれば、家が見えてくる。正面に見える夕陽が眩しい。
 制服からは、爽やかなシトラス。そこに混じる人工的でない匂いが、シカマルのにおいだろうか。風に漂う香りを、くん、と吸い込んだら、頭がくらくらした。

「一緒にやるか」
「え?」

 シカマルの匂いを嗅ぐことに頭がいっぱいで、鼻の奥から染み込む香りに胸がいっぱいで。低い声の意味が一瞬わからなかった。
 一緒にやる、って、私がシカマルと?

「俺ん家で」

 風で掠れた声に、胸が潰れそうだ。シカマルの家で、シカマルと一緒に。

「聞こえた?」

 すこし前のどうしようもなく遠い状態にくらべたら、いまの距離感は夢みたいで。そのうえ一緒に試験勉強をするなんて。幸せすぎて、罰があたるんじゃないかな。
 すれ違いつづけていた溝が急速に埋まっていくのは、嬉しいけれど、どこか怖かった。

(うっせ!迷惑なんだよ)
(ただの幼なじみなだけ、好きでもなんでもない)

 あれから何年もはなれていたのが、嘘みたい。
 思わぬきっかけで始まったシカマルの送り迎え。自転車の後ろに乗せられての通学も、当たり前になりつつあるけど。

「……ん」

 欲張ってはいけない、よくばりになりすぎてはいけない。ずっと目も合わせず、口もきけない状態から、やっとすこし元の幼なじみに近付けただけなのだ。
 ぽん、と突かれれば、ふたたび簡単に弾けてしまう。まだ、そんな危ういバランスに立っているのは分かっている。
 たった一瞬前までいちばん近くにいたのに、いちばん遠い存在になるのはあっという間。家族や兄弟と違って、幼なじみというのはそういう関係。
 だとしたらいまのこの距離だって、些細なきっかけでがらがらと崩れる。そんな危うさをはらんでいる。背中がくっつくほど近くにいる時間も、いつまで続くのか、明日終わるのか、わからない。
 だから、よくばってはいけない。必要以上に期待しないほうがいいのだ。

「何考えてんだよ」
「…別に、なにも」

 信号待ちで自転車がとまる。ちら、と首だけを後ろに向けたシカマルと目が合う。
 いつも教室では眉間に皺を寄せて、無表情ばかりなのに。今はこれ以上ないくらいに、やわらかく微笑む横顔。

「だったら良いけど」

 そんな顔を見せられたら、胸がざわりと騒いで。やっぱり心臓が潰れそう。
 期待なんてしてないし、そんなんじゃないから、と、誰に向けたのかわからない言い訳を繰り返す。心のなかで、なんども。

「来んだろ」

 もう決まった約束を告げるように、シカマルの声はやさしくて。きっと前に向き直った顔も、その声のようにやわらかくゆるんでいるのだろう。さっきより、もっと。

 青に変わった信号。自転車がすべりはじめる勢いを借りて、シカマルの腰に、ぎゅっ、と腕を絡める。
 もうすこしだけ、よくばってもいいかな。もうすこしだけ。

「うん」
「どうせお前、分かんねえとこばっかだろうし」
「ひど!そんなこと、」

 ふたたび半分だけ振り返ったシカマルが、ぴくり、片眉を上げる。ちょっと意地悪そうな顔。その表情、すごく好き。
 この前の、口角をきゅっと持ち上げる表情も、すごく好きだった。

「ないとは言わせねえから」
「…う。たしかに」
「だろ?ちゃんとチェック済み」
「どこで…」
「ナイショ」

 つうか、クラス一緒なんだからわかんだろうが。くつくつと笑うシカマルの背中がふるえる。楽しそうに。

「意地悪」
「これから勉強教わる相手に、んなこと言うワケ?」
「だって、ホントだし」
「強気でいられんのも今のうち」
「むかつく」

 そんな下らないやりとりが、どうしようもなく嬉しくて。ほんとうに、こんな幸せを味わってもいいんだろうか。ずっとこのまま、一緒にいられたらいいのに。
 ずっと、このくらい近くに。

 自転車が角を曲がる。あと数十メーターの距離、シカマルの腰にしっかりと腕をからめた。







 いつの間に寝てしまったんだろう。壁掛けの時計を見たら、すでに日付が変わりそう。
 身体を起こして、ちいさく伸びをする。

 来てすぐに勉強を始めたからゆっくりみれなかったけど、シカマルの部屋、あの頃とあんまり変わってない。昔からシンプルだった。
 本棚に並ぶ本が増えたのと、部屋の隅に置かれたダンベル以外は、ほとんど記憶のまま。
 あれで、こっそり身体を鍛えたりしてるんだ。いつも全然やる気なさそうなのに、と思ったら、すこし笑えた。

 シカマルは、教科書にうつぶせて眠っている。すうすうすう、規則正しい寝息。
 端正な寝顔。シカマルの標準装備である眉間のシワは、いまは見えない。
 ちいさなテーブルの上には、二人分の教科書やノート、参考書が散乱している。

「よく寝てる」

 そろそろ帰らなくちゃ、と思いながら、シカマルと同じようにテーブルに俯せた。もうすこしだけ、寝顔を見ていたかったから。
 もうすこし、もうすこしって、だんだん欲張りになっている自覚はあるけど。幼なじみの枠が、どこまでなのか、よくわからない。

 狭いテーブルの上にうつぶせれば、シカマルと額が触れそうだ。
 至近距離で見る顔は、ほんとうにキレイで。子供の頃よりシャープになった頬のラインとか、高くなった鼻とか、耳たぶのピアスとか、目に映るシカマルのすべてにドキドキする。視線が外せなくなる。
 寝顔も好き。

 こんな風にシカマルが好きで、ずっとそばにいれたらと思っているのは、私だけなんだろうか。
 だめだ。また、欲張りになってる。
 そっと手を伸ばして、艶やかな黒髪にふれてみる。思ったよりもやわらかい感触に、なんだか泣きたくなった。

「ん……」

 ちいさな呻き声が聞こえて、シカマルがすこしうごいた。顎を支えていた腕が角度を変えて、掌がこっちに伸びてくる。

 ――起こしちゃった、かな…

 俯せた私の髪をかすめて、ぱたり、シカマルの掌はふたたびテーブルにおちる。
 目が覚めた訳ではないみたい。規則的な寝息は、まだ続いていた。
 長くてきれいな指先の軌跡を、無意識に追いかける。
 いつの間にシカマルの手は、こんなに大きくなったんだろう。

 力なくのびた指を見つめていたら、開いたままのノートの隅に、かすかな違和感。自分のものではない筆跡がならんでいる。
 走りがきのなめらかな文字で、筆記体の単語三つ。

「な…に、これ」

 子供でも知ってる簡単な単語が、たった三語だけ。バカバカしいくらいありふれたそれが、こんなに力を持つなんて信じられないけど。
 心が揺さぶられた。

 見た瞬間に暴れはじめた心臓は、とまる気配もない。それどころか、ますます速度ははやまる一方。
 とくん、とくん、とくん。高まりすぎた鼓動は、身体から飛び出して。部屋のなかに音があふれて、シカマルに聞こえてしまうんじゃないか、と思った。

「……うそ、で しょ」






 顔が熱い。身体のなかも、すごく熱い。あつくてのぼせそう。

 目の前に並んだ文字列を、指先でなぞってみる。クセのない、綺麗な字。紙の表面をたどるだけなのに、笑ってしまうくらい指がふるえる。

 これは、自惚れても良いってことなんだろうか。それとも、夢を見ているんだろうか。冗談でこんなことをするようなシカマルじゃないし。

「……い…たっ」

 強くつまんだ頬は、痛かった。いたい。夢、じゃない。


「なにやってんだよ」


「…っ、シカ?」
「あー…、それ」

 言葉が出てこなくて、なんども首をふる。
 寝起きのすこし掠れた声、いつもよりとろんとした目。そんなゆるんだ姿も愛おしい。
 というより、シカマルいつ起きたんだろう。いつから目が覚めていた?

「…本気、だから」
「………っ!」
「つうか、お前気付くの遅すぎ」

 くしゃり、髪を撫でられて。やわらかい瞳に見つめられて。ふるえる唇をそっと塞がれて。

「うれしい」
「んなこと言うなって、胸が潰れそう」

 熱っぽい目に、捕まる。ふたたび唇を啄まれる。なんども、なんども。
 このまま終わらないんじゃないかと思えるほど、何度も。

 力の抜けた身体をぎゅうっと抱きしめて、肩にこつん、シカマルが顎をのせる。
 耳元で囁かれる自分の名前が、いままででいちばん甘くあまく聞こえた。

 もう、溶けそうです――




お嬢さん。男子の部屋で無防備な寝顔をみせるのは、非常に危険なのです。試験に出るから覚えとけ
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