嘲笑う君の口角45°

 幼なじみ。
 近くて遠い、強くて脆い絆。



 きゅ、音をたてて自転車のブレーキをかける。見慣れた向かいの家の前。たぶん1分と待たずに、彼女は出てくるだろう。
 予想通り、ぱたぱたと階段を駆け降りる気配に口元がゆるんだ。

「おはよ、奈良くん」
「おう。おはようさん」

 すがすがしい朝の空気。すこしだけ波打つ髪が、太陽をあびて眩しい。色素のうすい肌に、かるくグロスを塗っただけの唇。どくん、シカマルの心臓が鳴った。
 こうして彼女を迎えにくるのには、まだ慣れない。昔はあんなにあたりまえのことだったのに。

「…いつもごめんね」
「いつもって、まだ3日目だろうが」
「そう、だけど」
「気にすんなっつうの」

 彼女の手から鞄を浚って、前カゴに入れる。こうして会話しているのが、嘘みたいだ。でも彼女は俺の前にいた。ちゃんと制服を着て、立っていた。

「気に、する…よ」

 昔から、他人の気持ちをきづかってばかりのヤツだったよなあ。自分の感情を殺して、泣きそうな顔で唇噛んで、笑ってみせる。そんなところが昔からとても愛おしくて。

「ばーか」

 こつん。形のいい額をかるく小突く。途端に彼女の頬が染まるのを見て、また口元がゆるんだ。俺はちゃんと笑えているだろうか。久しぶりにこんなに近づいた彼女の前で、強張らずに笑顔を作れているだろうか。
 まだ、夢を見ているような気分だ。

 突然ふってわいたようなこの状況に、戸惑っていないと言えば嘘になる。でも、戸惑いよりも先に感じたのは、どうしようもない擽ったさだった。
 明日から送り迎えしてあげたらいいじゃない、あんたは部活もなにもしてないんだから。母ちゃんのこの種の言葉はいつも、提案ではなく命令だ。俺とあいつとの間に跨がる溝とか距離とか、そんなのにはいっさい配慮もなく、無遠慮に押し付けられる。
 反抗はできない。でも、どこかで、ちょうどいいチャンスかもしれない、と思ったのも事実だ。

「行くぞ。遅刻する」

 自転車に跨がって、後ろを指す。もうすぐ背中全体にお前の存在を感じるのだ。そう思えばドキドキしはじめる。

「乗れよ。はやく」
「…でも」
「いやなの?」
「違う」
「じゃあ、さっさとしろ」

 腕を引く。夏服から突き出した細い腕。思っていたよりもずっと、細くてやわらかい。子供だったあの頃よりももっと華奢に感じたのは、そのぶん俺が成長したってことなんだろうけど。予想外の感触に、胸がぎゅっと詰まった。

 いつもいつも一緒だったふたりが、離れてしまったのはもう随分前のことで。手を繋いだのも、忘れてしまいそうなくらい遠い昔。いま触れた手の平の感触が記憶と全然違うのは、忘れてしまったからじゃなく、彼女も成長したからなのだ。俺の知らないところで。

「待っ…て」

 ちいさな声はふるえている。唇は見たこともないくらいつやつやして、ダメだと思っても目がうごきを追いかける。触れたい。どくり、心臓がまた鳴った。
 俺は変態か。
 ヘンな男に追いかけられたみたいで、泣いて帰って来たんだって。明日から送り迎えしてあげたらいいじゃない。母ちゃんの言葉が頭のなかをぐるぐる回る。
 会わなくなったあの日から、毎日まいにち、ブラインドの影に隠れて向かいの家の彼女の気配を探っていた俺とその男と。どっちがイカれているんだろう。

「しっかり掴まって」

 そっと腰に回される腕の感触に、なおさら胸が詰まる。なんだろうこの甘い香りは、頭のなかが溶けそうだ。と思いながらペダルを踏み込んだら、動き出した瞬間にきゅっ、しがみつかれて。心臓が潰れそうになった。

「飛ばすぞ、落ちんなよ」

 照れ隠しの乱暴な台詞。進行方向のすこしむこうでは、かんかんかんかん、踏切が鳴っている。遮断機はまだあがったままだ。
 閉じてしまえばまたしばらくはあがらないそれが、まるで自分たちみたいに思えた。はやく、渡らなくちゃ、むこうに。

「…奈良く」
「シカマル」
「え?」

 下がりはじめたバーをすり抜けるように、線路を渡る。あがったスピードに比例して、お前の腕が俺を締め付けている。背中に感じるやわらかさで、頭がのぼせる。身体中の熱がお前のふれている部分に集中する。
 どくん、どくん、どくん、心臓はますますリズムを早めている。

「昔はそう、呼んでたろ。お前」
「……ん」

 ずっとずっとすれ違い続けてきたのに、幼なじみという事実だけは変わらずふたりの間にあって。それを喜んでいいのか、それが苦しいのか、わからないままだった。

「名前で呼べよ」
「………」
「な?」

 顔にいっぱいの風を受けながら、久しぶりにお前の名前を呼んでみる。心のなかでは、何度もなんども呼んだ名前。飽きるほど何度も。

(奈良とあいつってなに?好き同士ってヤツだよな)
(…ハァ?)
(あれだ!お前ら付き合ってんだろ)
(ちげえよ。ただの幼なじみだって)
(隠すなよ、照れてんのかァ?)
(うっせ。迷惑なんだよ)
(あ!)

 聞かれているとは思わずに、不用意に言った言葉。いまにも泣きそうな顔で彼女は俺とおなじ言葉を叫んだ。ただの幼なじみなだけ、好きでもなんでもない。するどい棘のように刺さった言葉はいつまでも抜けなくて。何年も前のことなのに、昨日のことのように鮮明だ。痛くて、いたくて、苦しくて、逃げ出した。

「……し か、」
「……っ!」

 あの頃の彼女よりも、ずっとか弱くてしっとりした声が俺を呼ぶ。どんな顔をしているのかは、見えないけど。背筋がぞくぞくする。その声、教室でお前が誰かと会話するたびに、聴覚が勝手に掬い上げていた。それがいま俺のすぐ後ろで、俺の名前を。

「やっぱり、……ムリ」
「呼べよ、」
「…奈良くん?」
「頼むから…呼んで」

 思ったよりもずっと切羽詰まった声がでた。自分でもあきれる。散々距離をとってきたくせに、何年も離れていた時間をたった3日で埋められる気がして焦っている。埋めたくて。

「シカ…マル」

 どくり、胸がざわざわする。叫びそうになる。好きだ、その声。好きだ、好きだ、好きだ。だから、もう一回。

「……シカマル?」
「ああ」
「自転車、止まってる」
「知ってる」
「遅刻…するよ」

 学校なんて行ってられるか、と思った。いますぐどこかに、ふたりで消えてしまいたい。
 片足をついて、路肩に止まる。腰に回った腕からすこしだけ力が抜けて、それが寂しくて。咄嗟に掌を掴んだ。

「………あの」
「…………」
「シカマル?」
「もう一回、呼んで」
「…シカマル」
「もう一回」
「シカマル」

 大丈夫?言いながら、すり抜けた片手が俺の頬を撫でるから、胸が弾けそうになる。

「重たくて疲れたの?」
「……いや」
「でも、迷惑だよね」

 耳たぶをかすめた指が髪に絡む。細くてやわらかい指先が頭を撫でている。

「明日から、一人で行けるし」
「………」
「イロイロごめんね、シカマル」
 でも、久しぶりにあの頃に戻ったみたいで嬉しかった。

 すとん。音がして、後ろが軽くなる。髪を撫でていた掌の温もりが消える。気持ち良かったのに。

「じゃあね、シカマル」
「………っ」
「ここから、ひとりで行くよ」
「待てよ」
「え?」
「もうムリ」
「な…にが」
「あの頃になんて戻れるわけねえだろ」

 振り返ると、また傷ついたお前の顔。そういう意味じゃないのに。でも、その表情にもぞくぞくする。可愛くてたまらない。

「そ……だよね」
「ああ」
「…鞄」

 前カゴにのびた手を掴んで、思い切り引き寄せた。ガシャン。派手な音をたてて、自転車が倒れるけどそんなのいまはどうでもいい。

「勘違い、すんな」
「…シカマル?」
「違うから」

 どくどくどく。破裂しそうなほどに脈打ちつづける鼓動。火を噴きそうに熱い身体。腕のなかで、ふるえるお前。
 喉がからからに渇いて、声が掠れる。目の前の白いうなじに吸い付きたい。

「シカ」
「久しぶりに名前呼ばれたから」
「……心臓が、すごい」
「お前もな」

 頭のてっぺんにキスをして。赤くなった耳たぶにそっとふれてみた。

「ばか」
「お前も」
「シカマル」
「ん」

 名前呼ばれたら、泣きたくなった。抱きしめてしまったら、我慢できなくなった。好きだと言ってしまったら、俺はどうなるんだろう。ずっと好きだったと言ってしまったら、俺たちはいったいどうなってしまうんだろう。

「今日はサボり、な?」

 返事がどっちでも、とても学校に行く気分じゃなくて。頷くお前を見つめながら、きゅっと唇を歪めた。



笑う君の口角約45゜

その顔が昔から死ぬほど好き。聞こえたちいさな声に、その場で押し倒してしまいたくなったのは俺だけの秘密
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