背反アンビバレンス
「そうじゃねえって、誤解だ」
「うそつき」
「嘘なんてついてねえっつうの」
「ぜんぜんわからない」
走り去る女の背を、シカマルは目だけで追いかける。華奢な背中で、明るいブラウンの髪がゆれている。
本気出して走る忍の後を追うのは、半端なく体力を要するものなのだ。そして、一瞬のためらいがおもいきり差を広げる。もう、彼女の姿は見えなかった。
ためいきしか出ない。
そっと図書処へ引き返すと、シカマルは頭をかかえた。
誤解。誰かの言ったことなどの意味を取り違えること。また、ある事実について、誤って思い込むこと。曲解。わざと曲げて解釈すること。
どっかの辞書によると、こうだ。
そもそも、いつも待ち合わせに遅れるのは彼女のほうだった。18時と決めて時間どおりに現れるのは約1割。
だからと言って、ふたりとも気にしたことはない。任務が読み通り終わらないのはザラだし、続けて緊急任務という名の雑用を押し付けられることもままある。
そういう世界にいて、それを承知で付き合っているのだ。時間に遅れることは、ふたりにとって、たいした問題ではなかった。
時刻は17時をすこし回ったところ。綱手さまのわがままなお願いをきいても、約束の時間に遅れることはなさそうだ。図書処で指定された書物を数冊、探して届けるだけだから。
「あ!ありましたよ奈良さん」
「どこ?」
たまたまそこにいた後輩が、善意で手伝ってくれたおかげで、残り1冊。ここから火影邸まで3分、待ち合わせ場所まで5分。時刻は17時半、充分間に合う。
「ここです。棚の上から二段目の」
右端から、いちにーさんし。喋りながら手を伸ばす後輩くノ一に近寄って。俺が取るからいいよ、と後ろから手を回す。
彼女の背では届くか届かないかぎりぎりの高さだし、下手したらコケんじゃねえの。怪我されてもめんどくせーから。
そう思った瞬間に後輩は案の定バランスを崩して、咄嗟に後ろから抱きとめる。あくまでも後輩が転倒しないように、だ。ここまでは予想どおり。
のはずだった。
読めなかったのは、その場面にちょうど彼女があらわれたこと。
なんで今日に限ってそんな早ェの。俺がここにいること、誰に聞いたんだ。なんでこのタイミングで。
でもまだ、なんとでも弁解できる。そんな状況。
なのに。
なにを思ったのか、後輩は頬を染めて、くるりと俺の腕のなかで向きを変えた。顔を見合わせるかたち。
ちょっと、待て。
これは、なんだろう。
さっきまでは不可抗力にみえた姿勢が、これではまるでお互いの意志にもとづく行為に見えるんじゃないだろうか。
まずい、と横目でとらえた彼女は、やっぱり眉をひそめている。
とにかく腕を解け、俺。
ほどいたと同時に、しがみつかれた。
「おい、なんのつも…」
は……?
なんだこれ、喋れねえ。
至近距離に見慣れない女の顔。
つうか、口 ふさがれてる。
口をふさがれてる?誰が、だれに?
なんで――
状況を理解するより前に、彼女の走り去る足音が聞こえて。ちょ、勘弁しろよ。
「奈良さん、好きなんです」
わりぃ、いま俺それどころじゃねえから。後輩の言葉を遮って、腕を振りほどいて、図書処を飛び出して。
――冒頭に戻る。
というわけで、始めから偶然がたまたまいくつか重なってしまっただけで。誤解なのだ。
戻った図書処に後輩はもういなくて、集めた書物の山だけが無造作に残されていた。
頭を抱えていたら、一部始終を見ていたらしいイズモさんに苦笑されて。俺のほうが笑いたいくらいっすよ、マジで。
頼まれたことをほうり出す訳にも行かないから、俺はいま綱手さまのところに書物を運んでいる最中。
18時まで、あと10分。このまま待ち合わせ場所に向かっても彼女はいないのだろうか。だろうな、やっぱり。
「失礼します」
「ご苦労。なんだシカマル、ふて腐れた顔して」
「んなことねえっすよ」
「はやく行ってやれ。女をあんまり待たせるもんじゃないよ」
綱手さまかよ、あいつに俺の居場所知らせたのは。ったく、こんな日に限って余計なお節介やくなよ。心のなかだけで理不尽な悪態をついてみる。
忍は裏の裏をかけというけれど、言葉ほど簡単ではない。というか、日常生活においてまで裏をかく意志はまったくないのに、勝手に裏をかかれている。これは彼女も忍だから、だろうか。
そうじゃねえな。運がわるいだけ。ためいきが出る。
どうせなら、あの状況の裏を読んでくれ。っつうのはムシが良すぎるけれど。
――ぜんぜんわからない。
彼女の去り際の言葉。
ぜんぜんわからない、じゃなくて、わかりたくねえだけだろ。
そもそも、誤解なのだ。目に見える事実の裏にある事情とか、どうしようもない状況とか、いちいち全部を短時間で説明するのは難しいし、微妙なニュアンスは言葉では伝わらない。
言葉で意志の疎通をはかろうと思うこと自体、そもそも間違いなのかも。
なぜなら、言葉というツールは、もともと誤解されやすいものだから――今の思考の軌跡、まるでシノみたいだ。シカマルは自嘲気味に笑う。
でも多分、ヒトが言葉を手に入れたときの目的とは、まったくちがう方向に進化してしまったのが、いまの言葉の形。
俺の口数がすくないのには、そういう理由もある。下手に口をひらけば、吐き出した言葉の数だけ誤解される。めんどくさいことこの上ない。
「ったく。ちゃんと話聞けっつうの」
さいごまで話を聞いてもらえたとして、うまく伝えられる自信はさらさらない。伝えたいことを、意図どおりに100パーセント伝えられる訳がないのだ。同じ単語を使っても、そのイミや認識は、人によってすこしずつ違うはずなのだから。
極論すれば、人と人は言葉の対話では分かりあえない。まさかそんなことまでは思わないけれど。
言葉を尽くして、心を尽くして、結局は受け手のフィルターで捩曲げられる。
「無駄、じゃねえか」
――ぜんぜんわからない。
彼女のふるえる声が、耳の奥にこびりついている。
言葉をもたない動物のままだったなら、俺たちはもっとしあわせだっただろうか。あのまま黙って抱きしめていれば、いま、ひとりでここに立っていることもなかっただろうか。
過去をふりかえってもどうにもならないのに。
どうするかなあ。
見上げた時計は18時ちょうど。彼女に振られてしまえば、することもないのだし。ほんのかすかな望みを賭けて、待ち合わせ場所に向かった。
秋の空は変わりやすい。さっきまでのきれいな夕焼けが、みるみる色を変える。雲がいっせいに垂れ込め、いまにも雨が降りそう。
こんな天気だと、なおさら彼女はいない気がして。ではどうやって誤解をとこうかと、そればかりを考えながら歩く。
なのに――
いた。
彼女は傘を手に、待ち合わせ場所に立っていた。
「お疲れさま」
「おう。お前も、お疲れさん」
ちょうど降り始めた雨に、彼女が傘を開く。差しかけられたそれを手にとって、さっきのことに触れるべきかと悩んでいたら、とん。肩が、ふれる。
「さっきは、ごめんね」
「は?謝んのは、俺」
「シカマルは、謝らなくちゃいけないようなこと…してないでしょう」
「まあ、な」
でも、誤解させた。泣きそうな顔をさせた。わざとじゃなかったけれど、それは事実だ。
「逃げて、ごめんなさい。信じてない訳じゃなくて」
「ああ。もういいって」
「誤解だってわかってたのに、目が……拒絶した」
どうしても、拒絶した。思い出したのか、彼女の声がかすかにふるえる。たよりなく。
見たくなかっただけ。自分のことを抱きしめるはずの腕が、他の誰かを抱きしめているのを見たくなかっただけ。それだけ。
たとえばこれが逆の立場なら、やっぱり俺も彼女と同じことをする。視覚を遮断するために逃げて、それでも、彼女を信じ、待つのだろう。
くだらない誤解ですれ違うのはもったいないから。そんなことで失うなんて耐えられないから。だったら、別のことに耐えるほうがずっといい。
それがたぶん、愛おしい、ということ。それくらい俺は彼女のことが好きで、彼女は俺のことが好きで。そう思ったら堪らなくなった。
「なあ、」
「え?」
彼女が俺を見上げる。大きな瞳がみひらかれ、どうしようもなく愛おしげな眼差しに俺が映る。お前が、俺を見ている。
どくり、高鳴る鼓動。
「なんもねえから」
「ん。知ってる」
ふわ。やわらかくゆるむ表情。
透き通る瞳に、映るオトコがしあわせそうだったから。欲しくなった。欲しくて、欲しくて。彼女だけが、欲しいと。
傘をすこしだけ傾けて。
人目から隠れたその世界で、そっとそっと、丁寧に。まるで壊れ物を扱うように、優しくやさしく唇を重ねた。
背反アンビバレンス例えば裏の裏が表であるような そんなふたりには、余計な言葉などきっといらないのだ。そっと両腕で胸に収め、怯えもためらいも誤解も愛おしさもなにもかも引っくるめて、優しくやさしく包みこめばそれだけで。