これも決まりごと
ちいさな足音が近づく。普通の人間なら耳を澄ましても届かないくらい、かすかな、微かな音。じわりと感じるチャクラも、嗅ぎ慣れた匂いも、よく知る男のものだ。
神経を研ぎ澄まさなくても拾い上げられるようになってしまった、それくらい長い時間をともに過ごしてきた同輩、不知火ゲンマのもの。
しばらくは誰にも邪魔をされたくないと思っていたはずなのに、彼の接近を全く不快に思わない自分が不思議だ。凪いだ空気をまとって、彼が少しずつ近づく。一歩、また一歩。
どれくらいここで、こうしていたんだろう。待機所には、いつの間にか夜がしのびこんでいた。
「お疲れー…って、お前」
なにしてんだ。訝しげなゲンマの声に振り返る。
「待機、だけど」
「こんな暗いのに、明かりもつけねえで…か?」
「立ち上がんのが面倒だったから」
とってつけたように笑う私を、ゲンマは黙って見下ろす。明かりを点ける気配は、ない。
正直ありがたかった。いま明るくなれば、仏頂面を晒すだけだから。とは言っても、忍の私たちには暗いところでも視野を確保する術が身についているのだけれど。
とにかく、見られたくない顔をしている自覚はある。光に晒されれば、問い、答える義務が生じてしまうくらいには、崩れた顔。
昼間、長年付き合ってきたカレシにフラれた。忍のカノジョを持つ一般人のオトコの気持ちは、私には想像することしか出来ないし、いろいろ考えれば潮時だったのかもしれない。
会えない日々、重なる年月。保守的なカレシのために、将来、貞淑な妻の役割を演じることなど、出来そうにもない自分。
特別上忍という立場のなんたるかなんて、恋人同士の間ではなんの意味も持たない。そのことが、もどかしい半面、安らぎでもあった。私をただの女にしてくれる人。だった。
なのに、息苦しくなったのはいつからなんだろう。
「もう、限界なんだ…ごめん」
「……わかった」
搾り出すような苦しげな声が、耳の奥にこびりついて離れない。愛してると囁いたその口が、告げる最後の言葉。すれ違いには、とっくに気付いていた。いつかはこうなると思っていた。確信すらしていた。
潮時。
そう、頭では思うのに、人間はなかなか割り切れない愚かしい生き物だ。傍にいて、あんなに息苦しかったのに、別れたあとになって思い出すのは、幸せだったころの記憶ばかり。
「俺のために生きてほしい」カレシにそう言われたら、普通の女なら嬉しいものなんだろうか。なぜ私は、素直に喜べなかったんだろう。
「いい月が出てんな」
ぽすん。隣に腰をおろした彼が、低い声をもらす。トレードマークの千本がゆらゆらと緩慢に揺れている。気になることがあるときのゲンマの癖。
「うん。お団子でも買ってくれば良かった」
彼はきっと、チャクラの乱れから何かを嗅ぎ取っているのだと思う。言葉には出さないけど。昔からこいつは、そんなヤツ。だから明かりもつけなかったのだ、たぶん。
たとえば。例えばゲンマなら、俺のために生きろなんて言葉は選ばない。きっと。共に生きよう、と。
すとん、と、唐突に理解する。
カレシがあの台詞を口にした時、私のなかに真っ先に浮かんだのは反発に似た感情。そこから私たちはズレ始めたのだ、と。
ゲンマは微笑みと諦めの混ざり合う、曖昧な表情でこちらを見ている。
「月見団子には季節が、なあ」
「いつ食べても美味しいもんは美味しい、でしょう」
くつくつと笑って、頭を撫でられると、自分が幼子に戻った気がする。こうやって、何気なく甘やかすのが上手なオトコは、友人として貴重だ。自分から甘えるのが苦手なことも、それを欲しているか否かも、的確に見抜いてくれる奴。
おなじ同輩の朴訥なライドウとも、キレ者のアオバとも違う彼。
「帰りに買ってやるよ」
「お返しが怖いから、結構です」
バーカ、んなもん期待してねえって。ゲンマが低く笑う。余裕たっぷりの、いつもの顔で。月明かりが、高い鼻梁にあたり、頬に影をおとす。
端正な顔。
頭に置かれたままの掌が、ふたたび動くのに合わせて、そっと目を見つめた。
「なんだ、いまさら見惚れてんのか」
「……相変わらず、自意識過剰」
「それが俺、だろ?」
「まあね」
ゲンマのそういうトコも、嫌いじゃない。鼻にかけている訳でもなく、ただの事実だから。淡々とした口調には、自惚れの欠片もみあたらない。
ゲンマらしいな、思いながら口元が緩む。空気が軽くなる。カレシと過ごした長い時間よりも、いまの方が私、ずっと楽に息をしている。ゲンマの隣は、居心地が良い。
「……いい顔」
「え?」
「いや、別に。こっちのこと」
夜風が舞い込んで、ゲンマの鈍い金色をゆらした。空気はもう、随分つめたい。
「団子じゃなくて、飲みに行くか」
「いいね」
◆
「たぶん、そういう時期にきてたの」
シ・オ・ド・キ。足元の小石を蹴り飛ばしながら、小さく呟く四音節。
「潮時っつうなら…」
適度に飲んで夜道を帰る途中。滑りの良くなった口が、うっかりもらした昼間のこと。その途端に、ゲンマの纏う空気が、微かに変わった。
「こっちもそろそろ、潮時だけど」
伸びてきた腕に、腰を引き寄せられて身体がぶつかる。なにが起きたのか、一瞬、頭が混乱する。酔いに任せた戯れ事かと見上げれば、そこには真摯な双眸。
「ちょ、待って…ゲンマ」
潤んだ熱っぽい瞳に、四肢を縫われたように動けない。
「ったく、往生際わりいなお前も」
「……」
「逃げようとしても無駄」
身体は勝手にもがいているけれど、条件反射にすぎなくて。ほんとうは、言われる前から分かっていた。アルコールで頭がぼやけていても、足元がふらついても、逃げる気はない。
「はなして、」
「はなさねえよ」
本心と反対の言葉は、呆気なく覆される。それが快い。
本当は、わかっていた。
なんでゲンマはいつも、いてほしいときに傍にいてくれるのか。欲しいときに一番欲しい言葉をくれるのか。それがただ、女の扱いに慣れているから、という理由だけではないこと。
「潮時って……なに」
ゆらゆら、月光を浴びた千本が闇に残す軌跡を、酔った視線で追いかける。
「わかってるくせに、聞くな」
ぐい。さらに引き寄せられて、身体がぴったりと密着する。
低い声が、乱暴に私を呼ぶ。
近い。顔が。
「どうしたの突然。らしくない」
「突然、じゃねえだろ」
くい、と口端が歪む。
生ぬるい吐息が、唇にかかった。
と思った次の瞬間には、かさついた感触が唇に触れていた。ゲンマのくちびる。
キス、されていた。さっきまで、ただの気の合う同輩だったオトコに。
とん。鼻の頭がぶつかる。額をあわせたまま、うすい琥珀が両目をくぎづけにする。いやじゃなかった、むしろ、心臓が潰れそうにうれしくて。幸せで。背中にそっとしがみつく。
「……俺にしとけ」
唇をはなして、目を見つめて。ふたたび唇が重なる。甘いアルコールの香り。嗅ぎ慣れたゲンマの匂い。いつからか、カレシよりもずっと馴染んでいた香りに包まれて、心がゆっくりと溶け始める。
「な。どうせお前には、」
啄む途中にこぼれる声は、いつもよりずっと低い。身体の真ん中に染み込む響き。
いつの間に千本を抜いたんだろう、いつからゲンマは私をそんな風に見てたんだろう、なんて、どうでもいいことが頭をよぎる一方で、啄まれ続ける感触にやわらかくとけてゆく。
軽く、やさしく食まれる下唇。耳に入り込む低い声で、身体は一気に熱をあげた。
これも決まりごと俺が必要、だろう?- - - - - - - -
2009.11.10
ラストの台詞を言わせたかっただけ