たった一滴
ギィ。渇いた無機質な音を立ててドアを開ける。ぱたりと閉まるまでのほんの一瞬、変な空気が漂った気がした。自分の部屋なのに自分の部屋じゃないような、微かな違和感。
その夜も、私は任務を終えていつものようにひとりの部屋へ戻った。早朝から働き詰めで、身体はどろどろに疲れている。近頃、毎晩この調子だ。
そんな疲れた神経でも、無意識にアンテナを張り巡らしてしまうのは、日ごろの訓練の賜物というか。くノ一の哀しい性というか。
「…ん?」
明かりはついていないし、いつも通りしんと静まりかえっている。なのに、その静寂がどこか不自然なのだ。
「……ただいま」
威嚇の意味も込め、暗闇に声を投げるとチャクラを研ぎ澄ます。返事のない室内へ足音をしのばせて少しずつ近付けば、さっきまでの違和感は消えていた。嘘のように。
念のためいつもより五感を尖らせてみても、耳にも目にも、なにも訴えて来ない。攻撃性のない違和感はもしかしたら彼のものかと思ったけれど、いま彼は里にいないはずだし。
疲れすぎたせいで感じた、錯覚だったのだろう。
「お疲れさま、私」
こんな日は、さっさとお風呂に入って早々に寝てやろう。それがいい。
暗いリビングに向かいかけた踵を返して、バスルームの照明スイッチに手をかけた瞬間。不意打ちのやわらかい声が、耳元で聞こえた。
「おかえり」
「……っ!」
「どしたの?そんなぴりぴり神経張り詰めちゃって」
それが、長期任務で里にいるはずのない男の声だと分かった瞬間に、なんで?どうして?という問いよりも先に、ホッとして力が抜ける。
「…っ、カカシ」
「おかえりー、元気だった?」
ぱちり、バスルームから漏れる淡い光のなか。ゆるんだ顔のカカシが、斜め後ろから見下ろしている。スイッチ脇の壁に片手を突いて、背中から覆うような姿勢に、ざわざわと胸が騒いだ。
またこの人は、こうして訳の分からないことをする。早めに戻るのなら知らせをくれればいい。待っているのなら、明かり位点けていればいいのに。
ご丁寧に気配まで消してくれちゃって。びっくりするじゃない。
「おかげさまで。そっちは?」
「さあ、どうだろうね」
ため息交じりの私に、掴みどころのない答えを返すカカシ。およそ彼氏と彼女らしくない会話に、込み上げる笑いを抑えながら、カカシを観察する。
私にあまり驚いた様子が見えないからなのか、不満げに口を尖らせる仕草が子供のようだった。
こうして顔を付き合わせるのは久しぶりだけれど、それも仕方ないことだと諦めている。慣れっこ。任務の連続ですれ違い続き、忍同士のカップルなんてそんなものだ。
「長期、終わったの?」
「終わらせた」
相変わらず端正な顔には、微かな疲れが滲んでいた。部屋が暗かったのは私の意表をつくためじゃなくて、単に寝ていただけなのかもしれない。
「またムリしたんだ」
「充電切れそうだったからね」
付き合っているとは言っても、ふつうの恋人同士みたいにいかないのは覚悟の上だし、執着し過ぎないようコントロールする術はお互い身についている。
でも、こうして二人になって顔を見れば、それはまた別の話。
「充電って…なにそれ?」
「なにって、お前の愛の充電に決まってるでしょ」
早速充電させて。と、言いながら後ろから腰を抱き寄せるカカシは、すっかりモードを切り替えているらしい。こうなったカカシに抵抗するのは無駄だ、口でも力でも歯が立たない。
それ以前に、抵抗する理由もないしね。ふっ、とため息を吐き出して、身体を委ねた。
「素直で嬉しいよ」
「あと一週間はかかる任務を無理矢理終わらせてしまう実力をお持ちの方に いくら抵抗しても無駄、ですから」
「何それ、ホントは嫌ってこと?」
「嫌じゃないけど、一つお願い聞いてくれたら嬉しい」
「何なりと」
ゆるく拘束している腕を解いて、顔を見合せて。
「お風呂、入りたい」
「じゃあ俺も、一緒に」
「ひとりで、入りたい!」
「なんで?」
「疲れてるから、じっくりバスタブで癒されたいんです」
「あ、そ……んじゃ、溺れないでね」
え?いいの、ホントに?
ここは、お前が疲れてるなら尚更浴槽で溺れられたら困るから監視のためにも俺が一緒に入らなくちゃダメだと思うんだよね、とかなんとか、説得力あるのかないのか分からない強引な主張をする所でしょう?
いつものカカシなら、ここで食い下がって無理矢理にでもワガママを通そうとするはずなのに。いやにあっさりと引き下がる所が、妙に引っかる。
「いいの?」
「どうぞどうぞ、ごゆっくり」
やっぱりカカシらしくない。
もしかしたら、誰かの変化の術とかで、なんらかの目的を持ってここに忍び込んだんじゃないだろうか。カカシの姿を見せられて、あっさり気を抜いた私に、内心『ざまあみろ、浅はかな女め』って思っているんじゃ。
でも、ここに忍び込むとしたらなにが目当てなんだろう。最近の諜報資料は全て暗号化して提出済みだし。他にはさして重要性の高いモノなんて思い付かない。
「なーに?それともやっぱり、」
「え…?」
「俺と一緒に入りたい、とか」
「……っ違います!」
じゃあさっさと行っておいで。とひらひら手を振るカカシに苦笑を返し、バスルームへ向かった。
◆
悪いけど、彼女の考えていることくらいたいていはお見通しだ。
女性にしては感情の起伏がおだやかで、めったに心を剥き出しにしない彼女だけど、だからこそ、ほんの些細な信号がどれだけ大きな意味を持つか。ずっと観察していた俺だから、分かってしまう。
さっき、暗闇で俺の声を聞いた瞬間にかなり驚いていたことも、俺の顔を見た途端に表情がやわらかくなったことも、いまあっさり引き下がった俺に不信感をいだいていることも(本当は一緒にお風呂に入っても良いかなと思っていることも)、ちゃんと気付いている。
「甘いんだよね、まだまだ」
でも、そんなところが可愛いんだけど。独り言とともに再び気配を消して、そっと彼女のいる場所へと忍び込んだ。
◆
バスタブに身を横たえて、ため息をひとつ。そっと目を閉じるけれど、さっきのことが気になって仕方ない。
あれはホントにカカシだろうか、そっくりに変化した別人なんじゃないだろうか?
(でも、わざわざこの部屋に忍び込む理由が分からないんだよね…)
気を抜くと独り言が出てしまうのは、ずっと前からの癖だ。特に自宅のバスルームは独り言天国。傍で聞いている人がいたらさぞ不気味な光景なんだろうけど、ひとつ言葉にするたび、曖昧な思考に少しずつカタチがみえて、頭のなかが整理されていく感覚がとても好きだ。
パズルのピースを一つひとつはめていくような感覚。
(理由はともかく、たとえば彼がカカシに変化した別人だったとして)
別人だと思ったのは、やけにあっさり『ふたりでお風呂』の主張を引っ込めたからなのだけれど。それは、一体なぜなんだろう。
私の意志を尊重してくれた、以外にも、何か理由があるんじゃないだろうか。
ひとまず背格好はカカシそっくりだ。額宛や口布でほとんど隠れていたけれど、顔立ちにも違和感はなかった。抱き寄せる腕のしなやかさも、触れた胸板の感触も。ふわりと漂った香りも。
(やっぱり、カカシだよね…)
目に映るところはぜんぶ、カカシだった。手甲からのぞく指先や、爪の形も。あれが本人でないとしたら、術者は余程丁寧にカカシを観察している者だろう。私だって、あんなに上手にカカシに変化出来るかどうか分からない。
見たところほぼ完璧。じゃあ、普段は目に見えない部分は、どうなんだろうか。
(っ!もしかして、)
変化の術は、変化したい対象の色や形などの情報を、脳内で具体的にイメージすることが必要だ。つまり、自分のよく知っている者への変化は容易だが、知らない者にはなれない。
(だから……一緒にお風呂入らなかったんじゃ?)
見たことのない部分は想像できないから、どこに傷があるのか、とか、どんな風に腰骨がラインを描いてるのか、とかは本人以外の者にはそうそう分からないし。分からない以上は、正しく変化出来ない。
(どこにホクロがあるか確かめれば、本物か偽物か分かったのに…)
目を閉じたままバスタブのお湯を掬って、ぱしゃり、うっすら汗ばんだ顔をすすぐ。
きっとそうだ…偽物だから、私に裸を見られる訳にはいかなかったのだ。
「じゃあ、確かめてみる?」
「うん………って、え!?」
当たり前のように聞こえてきた声に返事をしてから、その状況のおかしさに気が付いた。
そっと目を開けば、ひとりきりだったはずのバスルームに、カカシ。額宛ても口布も外し、彫像のような完璧な裸体を晒した男が、やわらかい顔でこちらを見ている。
気配だけはしっかり消して。
「お悩みみたいだね」
「…カカシ、いつから?」
「ずいぶん前かな。だから、寒い」
形よい二の腕に薄く浮かぶ鳥肌、暗部時代の名残の入れ墨。いま確認できる部分は、たしかに見覚えのあるカカシのもの。
「隣、入れて」
「……なん、で?」
「早く充電したいから。それに、ずっと放っておかれて風邪ひきそうだし」
「そういうことじゃなくて」
「まだ……」
するりと後ろに滑りこんだカカシが、そっと身体を包み込む。ひんやり冷えた体温が、火照った肌に心地いい。
「俺が本物かどうか、わかんない?」
両足の間に挟まって、ゆらゆらと波打つ水面下。透き通る白い肌の上に、ぼんやり見えるホクロ。触れ合う皮膚のなめらかな感触。カカシだ、間違いない。
「…カカシ」
「やっと分かってくれた?」
「ん」
「でも、」
強く抱きしめられて、とく、とく、とく…脈打つ拍動。
きゅっと口の端を持ち上げたカカシの声が、甘く耳たぶを撫でた。
たった一滴もっとちゃんと分からせてあげたいから、これから俺を注がせて。- - - - - - - - - - - - - -
どこにホクロあるんだろ