はれものにさわる
ひさしぶりにうちに現れたかと思えば、俯いたまま顔を上げようとしない彼女を前に、シカクは途方にくれていた。棒立ちで玄関に突っ立って、かれこれ5分以上は無言がつづいている。
このままでは埒があかないと、ひとつため息を吐き出してシカクは重い口をひらいた。だいいち、冬の玄関先は寒い。じわじわと足元から這い上がるつめたい空気に背筋がふるえる。いまは二月の半ばなのだ。
「どうした」
「……これ」
やっと口をひらいたかと思えば、俯いたまま甘ったるい匂いのする包みを無造作に押し付けて「じゃあ」と帰ろうとするものだから、咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
「待ちやがれ」
「帰る」
「なんだこりゃ」
「バレンタイン」
だろうなあ。最初から、んなこたァ分かってる。俺が聞きたいのは、どうしてお前が久しぶりに会えたのに顔の一つも見せずにさっさと帰っちまおうとすんのか、ってことだ。もしかしたら、ちょうど歳の頃の合ういい男でも見つけたか。ちらと脳裏をよぎった推測に、胸がむかむかした。
そうだとすれば、ただ、仕方のないことなのに。仕方がないなんて安い言葉では済ませられない想いが胸に燻っている。いい歳してなにをやってるんだ俺は。こんな小娘ひとりに容易く乱されている自分が情けなくて笑える。
「顔、あげろ」
「やだ」
「我が儘言うんじゃねえ」
我が儘を通そうとしているのはどっちだろう。
「言いてぇことがあんなら、ちゃんと顔をみて言いやがれ」
もし万が一、このまま終わるにしても、それでも近くでもう一度じっくり彼女の顔が見たいと思った。ずっと会いたかった。会いたいなんて青臭いセリフはとても吐けそうにないくせに、会いたくて。焦がれて。夢にすら見た。
掴んだ手首を引きよせて、顎を掬う。無理やり上を向かせれば、彼女は空いた手で必死に右目の辺りを隠した。
「言いたいこと、ないから」
「俺には、ある」
聞きてえことも、言いてえことも、やりてえことも山ほどあんだよこっちには。
ぐずぐずと燻る胸の内を抑えて、頑なな手のひらを引き剥がしたら「シカクのバカ!強引!デリカシー欠如親父!」と叫んで平手が飛んできたのを頬を打つ寸前で受け止める。
「ほどほどで中入れば」と、奥から呆れたようなシカマルの声が聞こえた。
彼女の顔を見た瞬間にものすごい安堵が浮かんできて、がくりと肩の力が抜ける。
なんだ。そういうことか。
「見られたくなかったのに」
「別に気にしちゃいねえよ」
「私は気にする」
まだ前髪で必死に隠そうとしている彼女の額には、ぷっくりと可愛らしい吹き出物がひとつ。こんなモンの為に、顔も見せずに帰っちまうつもりだったのかと、彼女のその若さが可愛らしくて仕方ない。
無理やり抱えあげて部屋へと連れ込めば、じたばたと腕の中で暴れる彼女にますます微笑みがこみ上げる。
「阿呆か」
「アホじゃないし。シカクに美味しいの食べてほしくて、チョコレート味見しすぎてできたんだから」
「きっちり責任とってやるよ」
言いながら額のそれに、そっとくちびるを落とせば、たちまち彼女の頬は真っ赤に染まった。
「いたい」
「なんだァそりゃ、触ってくれってマーキングじゃなかったのか」
「ばかシカク!」
また振り上げられた両手をなんなく捕まえて、しっかり頭の上で両手首を束ねる。もう一度額にくちびるを這わせれば大人しくなる。そのまま重力任せに床へ転ばせて、上からじっと見下ろしたら、不貞腐れたようにまた顔をそらした。
「可愛らしいポッチじゃねえか」
「もっと大人になれば、こういうの出来なくなるのかな」
しみじみ呟くくちびるを親指でなぞって。額の生え際までそっと輪郭をたどれば、瞳が潤んだ。またひとつ額に口づけて頭くしゃくしゃと撫でると、「子供扱いするな」と言って唇を尖らせる。
押し殺さない幼さが愛おしくて仕方なくて、てのひらで両頬を包みこみ、目を細めて彼女を見下ろす。
重なった視線がやっと絡み合って彼女の瞳がふわっとほどけ、「シカク」と呼ばれる自分の名を堪能してから、ずっと焦がれていた唇を存分に吸った。
はれものにさわる急いでもいいことなんてねぇぞ。