冗談でもやめてくれ
ぴりぴり。断続的につづく空気の振動、鼻先にしのびこむ火煙の匂い。部屋が足元から揺れる。それを感じ取った瞬間、俺は弾かれるように窓際へと飛んでいた。
暗号部の窓からの視界は限られている。遠くで上がる煙は、どこか現実離れしたものに見えた。けれど、嗅覚が捉える焦げくささ、聞こえてくる人々の悲鳴。
「シカマル…」
「ああ、分かってる」
サクラの低い呟きに答えながら実感する。これは紛れもない現実なのだ。
鈍い爆音があちらこちらで響く。建造物は次々に形を失って、まるで玩具のように崩れ落ちる。堅固に張られているはずの里の結界を、こうも易々と摺り抜けて侵入してくる敵が、どれほどの勢力なのか。考えるまでもない。
木の葉崩しの比ではない未曾有の大惨事が、いままさに目の前で繰り広げられていた。
「これって…?」
「行くぞ!」
疑問と怯えを含んだサクラの声が耳に届くよりもずっと前に、戦闘準備を整えて窓枠に足をかけていた。俺の脳裡に浮かんでいるのは、幼なじみの顔でも亡き師の忘れ形見でもなく、たった一人の女の顔。ただの同期のくノ一、顔を見合わせれば普通に会話する程度の友人、だけど、本当は――
っと、いまはそういうことを考えているときではない。
「たぶん暁だ。サクラ、気ィ抜くなよ?」
「分かってるわ。アンタもね」
「トーゼンだろ」
いまは、特定の誰かの安否だとか、そういうことを考えているときではないのだ。
そう自重するシカマルの中で、意識の大部分を占めているのはやはり、細い身体のなかに強い意志を秘めたひとりの忍。凛と透き通る彼女の姿、だった。
――アイツは今、どこに。
そう考えている間にも、あちらこちらで爆発音が続いている。里の中にいるのなら、きっとどこかで既に参戦しているだろう。誰よりも正義感の強い彼女のこと。そこに敵が現れれば、能力差など度外視して立ち向かうはずだ。
非戦闘員を巻き込まないのが、戦闘員の鉄則――そんな忍の世の常識が、暁のやつらに通用するワケもない。だから彼女は、そこにもし一般の里民がいれば、進んで盾になろうとするに違いない。傷ついた者がいれば、迷わず自らのチャクラを惜しみなく使うだろう。
「ったく、なんだよこれは」
ザザッ、土を蹴って先を急ぎながら、チャクラを張り巡らせる。瓦礫と化した建造物の群れ、轟音をあげて崩れてゆく高い塀、ちらほらと目に入る傷ついた同胞。息のある者を抱き起こして呼びかけながら、すっかり戦場になり果てた里の姿に、不安は募る一方だ。
まったくここは、本当に木の葉だろうか。突如として異空間にほうり込まれた錯覚に陥る。でも、足元に転がる看板や半分以上形を失った建物は、やはり見覚えのあるそれなのだ。
「シカマル、先に行って!」
傷付いた里民を助け起こすサクラに頷きだけを返して、全容の掴めない戦火の中心へ、ただ突き進む。どこにいるのか分からない彼女の顔を思い浮かべるだけで、胸が握り潰される気がした。
その理由が何なのかを、俺はもうずっと前から知っている。忍には邪魔なモンだと目を瞑り続けてきた感情。特定の個人に傾ける、特別な感情。
邪魔になるからといくら目を反らしても、消えてはくれないモノ。一番失いたくない大切なものは、目を閉じても心から消えたりしないらしい。
――どこだ、アイツは無事なのか?頼むから、無事でいてくれ。
煙で霞む視界に、目を凝らす。チャクラを研ぎ澄ます。肺の機能がうまく働いていないのか、苦しくて堪らない。でもこれは煙を吸い込んだせいじゃない、ということも分かっている。
彼女はいま、どこで、何をしているのか。忍とは思えない、あの華奢な立ち姿を、柔らかい表情を思い浮かべるだけで、呼吸がおかしくなる。
どくり、どくり、心臓は暴れつづける。いまさらになって、彼女の存在のデカさを思い知らされていた。だから、苦しいのだ。
焦りで足がもつれる。
徐々に里の中心部へと近付いてくる攻撃の手、頭の片隅で戦況を分析し俺の今やるべきことは何なのかと考える。その一方では、全然別のことが頭を占めているなんて。火の意志が聞いて呆れる。でも、一人の人間を守ることが出来なくて、里を守ることなんて出来るのか?いや、そんなことは今考えることじゃない。
堂々巡りする感情の波に、自嘲の笑みを漏らしかけた瞬間、近くでか細い声が聞こえた。
◆
「シカ、マル……ッ」
「……っ!」
シカマルと目が合う。彼の無事を確認した途端、ホッとして身体から力が抜けた。力を抜いていい状況なんかでは、決してないのだけれど。
数名の同胞を病院に運び、再び戻った戦場で、爆音と共に降ってきた瓦礫の山に下肢を挟まれて動けなくなった。たぶん、右足首が折れている。裂傷が数箇所。でも、不思議と痛みは感じない。
痛くはないけれど、どくどくと自分の内側で波立つ血流の音が、やけに大きく響いていた。何度もそこから這い出そうと試みたけれど、身体はまったく動かない。それどころか、力がどんどん抜け落ちていく。
「…っ、大丈夫か!?」
里民の救助をし、敵に立ち向かうべき私が、こんなことになっているなんて忍として情けないと思う。でも、ずっとシカマルの顔が見たくて、無事を確認したくて、そのことばかりを考えていたから。
いまはシカマルの顔を見られたことが、どうしようもなく嬉しくて。生きていてくれただけで嬉しくて。大義名分の前に、ぽろりと本音が漏れた。
「…良かった、無事で」
「良かったじゃねえだろ、何やってんだよ!」
初めて聞いたシカマルの荒々しい声に、びくり、肩が揺れる。眉間のシワがいつもよりずっと深くなっている。
次々に崩れる建造物から、土埃が立ちのぼる。淀んだ空気にげほげほと噎せながら、笑顔を作ってみるけれど、どうも失敗してしまったらしい。
「バカッ!んなときに笑うな」
シカマルの表情が、さらに険しくなったように見えた。
◆
「ちょっと足を捻っただけだから」
彼女を見付けた瞬間にホッとした気持ちは、すぐに吹き飛んだ。いつも薄桃色にいろづいている唇からは、血の気が失せている。顔色も青白い。
「嘘吐くなっつうの」
近寄った彼女の傍に、小さな血溜まりがあって、無造作に近付いた俺の足を赤く濡らす。それが彼女のなかから溢れたものだと気付いた瞬間、身体から一気に血の気が引いた。ぞくりと鳥肌が立つ。
彼女の、血。
「大丈夫、だから…」
じわじわと滲んで土に染みていく液体。こんなものは、いくらでも戦場で見慣れている。いつ見ても気分の良いものではないけれど、その赤に慌てない程度には冷静でいられる自分になれた、と思っていた。
「…っ、シカマ」
「じっとしてろ」
なのに、どうだろう。全然ダメなのだ。
目の前で血を流しているのが敵じゃなく、同胞で、それがしかもお前だというだけで、どうしようもなく取り乱す。指先がふるえる。心臓は痛いほどに締め付けられる。苦しいのはきっと彼女の方なのに、胸が苦しい。
「たしはまだ、大…丈夫だから」
囁く彼女の声も、響き渡る爆音すら、遠くで聞こえる。音が、消える。
俺はいま、何をすればいい。何を…このまま、なにも伝えないまま、もしかしたら俺は彼女を失うのか?
そんな、馬鹿なことがあってたまるかよ。俺は、まだ。
掻きむしられるようなもどかしさの中、彼女の頬にそっと手をあてる。
「……先に、行って」
青白いけれども温かく、やわらかい感触。俺よりも少しだけ低い体温。じわじわと指先から染みてくるぬくもり。
「シカマ…ル」
再び名前を呼ばれた瞬間、積み重なるコンクリート塊に手をかけていた。
「お前を置いて行けるかよ!」
彼女をこれ以上傷付けないよう気を配りながら、それでも夢中で瓦礫を取り除く。
チャクラを練り上げて、ひとまず一番大きな裂傷に止血を施す。傷はデカいが致命傷ではないことにホッとした。だが、出血が酷い。
折れた骨を固定していたら、また遠くで爆音が聞こえ、もうもうと煙が立ちのぼる。少しずつ巨大な何かがこちらに向かってくる。
「ここは危険だ」
「ホン…トに、」
「あー、うるせぇぞ」
「 平 気……」
「だったら、ちっと黙ってろ」
これ以上黙らないつもりなら、そのお喋りな口を塞いでしまおうか、と思ったのと同時に不穏な気配が一層近付いて。
躊躇する間もなく抱え上げた身体は、びっくりするほどに軽い。こんな身体で、いつもお前は。
貧血になっていたらしい彼女は、俺が走りはじめるとすぐに、薄い瞼を閉じて眠りに落ちた。
◆
シカマルが誰にでも優しい男だということは知っていたけれど、手を伸べられれば嬉しいと思う。心配かけたくはないのに、心配な顔を見せられればやっぱり嬉しいと思う。
こんな状況下で、そんなことを考えている愚かしさが、伝わってしまわなければイイ。戦況よりも、自分の意地を張り通すことばかり考えている私は、なおさら愚かだと思った。
瓦礫から抜け出せさえすれば、自力で動けると思っていた身体はまったく言うことをきかない。
止血も、簡単な応急処置すらもひとりでは出来ない自分に愕然とした。張り詰めた空気の中、シカマルが私に触れるたびに、心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられる。
それに併せて、意識がぼんやりと薄らぐ。だけど迷惑はかけたくなかった、足手まといになるのはゴメンだと思った。
「ホン…トに、」
「あー、うるせぇぞ」
「 平 気……」
「だったら、ちっと黙ってろ」
予想よりずっと出血の量が多かったのらしい。乱暴なのに優しいシカマルの言葉を聞きながら、その腕に抱え上げられて間もなく、眠りの底に引きずり込まれるようにそっと目を閉じた。
次に目を開いたのは病院で、シカマルの腕からそっとベッドに降ろされた瞬間だった。やけに愛おしげな瞳が、私を見下ろしている。
その瞳はなんだろう、どういう意味がある?かすかに憔悴した表情のなか、私が瞳を開いたのと一緒に、安堵が広がった。気がした。
「もう少し遅かったら、危なかったわよ、無茶しないの!!」
言いながら手際よく血液パックを繋げるサクラに、ごめんと肩を竦める。
相変わらず、外では低い爆音が続き、地面が時折びりびりと揺れる。窓から見える光景もすっかり様変わりしている。
たぶん数分しか経っていないのに、随分長い間抱かれていた気がした。
「マジ、焦った」
「ありがと…ゴメン」
「謝んなって」
おかげでイイ思いできたし。
「え?」
「いや、何でもねぇよ」
喉の奥で低く笑って、シカマルがくるりと背を向ける。
「わりィな」
「行って、……早く」
「ああ。わーったよ」
「シカマルを必要としてる人たちが、いる」
「…お前は?」
「私……は」
振り返ったシカマルは真っすぐ瞳を見つめる。吸い込まれそうな黒目に、私の中のなにかが縫い止められる。
私も。私にもシカマルが必要に決まっている。だから、必ずここに戻ってきて。
「答えは、戻ってから」
「んじゃあ、死ぬ気でやんねぇとな」
「必ず、また…」
「たりめェじゃねえか」
「……気をつけて」
「お前も、な」
ようやく感じはじめた激しい痛みに堪えながら、しっかりと目を開く。
外は戦場。
ひらひらと後ろ手をあげる広い背中に、明日を祈った。
冗談でもやめてくれ全部片付けてきっちり聞かせてもらうから。予想外の答えならい・ら・な・い。