ストイックの末路
箍の外れた禁欲主義者ほど癖の悪いものはない、とシカマルは思う。
いつの間にか通い慣れてしまった彼女の部屋で、自嘲の笑みを堪えながら見上げれば、時計はもうすぐ日が変わる寸前。今年も間もなく終わりだ。
まだ浅い息を繰り返す身体はしっとりと汗ばんでやわらかい。彼女を胸にそっと収めたまま、こういう年の越し方も悪くねえな、なんて人生で初めての女と過ごす大晦日に口元を緩める。
そんな情事後の気怠さが伝染したようなぼやけた耳に、突如、爆弾が飛びこんだ。
「勘違いだったみたい」
「……なにが?」
不穏な台詞に、腕をゆるめて顔を覗き込む。淡い光のなかで薄く眼を閉じた彼女の睫毛が、頬に影を落としていた。
「セックスをしたら、何かが変わると思ってた」
「は?」
「何かが解る、と思ってた。ずっと」
どういう意味だろう。一瞬前までの浮ついた気持ちが、急激に萎んでゆく。
長い間プラトニックな彼氏と彼女を続けて、一線を越えたのはほんの少し前のこと。それでももう、既に何度かは身体を重ねているというのに。いまさら"勘違い"って、なんだよそれ。
「解る……って、何を?」
これは別れ話の前振りなんじゃないかと、俄かにざわつき始めた鼓動をなんとか抑えて、咽喉の奥から声を絞り出す。もしその予想が本当なら、彼女はかなり趣味が悪い。
触れあって、混ざりあって、溶けあって。心と身体がひとつのものになった直後に、こんな話を切り出すのだから。一番残酷なタイミングを選んだ振り方だ。
「シカマルのことも、自分のことも、その他も」
大学の同級生の彼女とは、付き合ってもう数か月になる。たしかにこういう関係に至るまでには随分時間がかかったけれど、それは俺なりに彼女を大切にしようと思った結果で。ストイックでポーカーフェイスを気取った自分の本性を、自分が一番恐れていたから。
「分からなかった?」
「分からない、というよりも、余計に分からなくなった」
人を寄せ付けないように無意識に張り巡らしていた柵を、彼女が飛び越えて近付いてくれたことが本当にうれしくて。こんな風に寄り添っていられるのが彼女であることを幸せだと思っていたのは、俺だけなんだろうか。
「何も変わらなかったのかよ」
閉じたままだった彼女の瞳が、そっと開いて俺を映す。随分頼りない表情をした俺が、そこにいた。お得意のポーカーフェイスはもう、保てそうにない。
「どう…したの?シカ」
「別に」
彼女の小さな掌が、やさしく頬を撫でている。愛おしいものに触れるように、やさしく。そう感じるのは、愚かな俺の幻想だろうか。
「ごめん」
「謝んなっつうの」
「でも、こんな顔させた」
「…で?何にも変わんねえのか」
「すこし……」
両手の平が、頬を包み込む。ぐっと至近距離で見つめられると、また心臓は騒ぎだす。少しってなんだよ、少しって。
「少し、シカマルのことが好きになった」
「へえ…少し、ね」
俺は最初に抱いた瞬間から、感情が膨れ上がる一方で苦しい位なんすけど。毎日でもお前と繋がりたくて、我慢の限界と日々戦ってるんすけど。
でもまあ、感情の分量は誰にも測れないし、彼女の少しが俺の今の感情より軽いか重いかなんてわからないから。少しでも好きの分量が増えたのなら、それはそれでいい。
「そりゃ、どーも」
「あれ?怒った?」
「いや、別に」
「身体を一度重ねるたびに、少しずつ少しずつ好きになって」
「ああ」
「そのたびにますますシカマルが分からなくなっていく」
「……」
そういう感覚なら、俺にも分かる気がした。目の前の彼女と顔の触れる寸前で、じっと瞳を見つめ合う。言葉の奥にある彼女を読み取りたくて。
「その前からもうどうしようもない位に感情が膨らんじゃってたから、」
「へ……?」
じゃあ、勘違いだったってのはそういう意味?もともとすげえ好きだったから、それ以上に好きになることはないと思ってたのに、もっと好きになってるって、そういうことかよ。
「あれ以上好きになるなんてあり得ないと思……っ!わ」
ホッとした瞬間、乱暴に唇を塞いでいた。高まり過ぎた焦燥感をぶつけるように、何度もなんども。
苦しげな彼女の呻きが聞こえても、まだ離れたくないと思った。
「…っ、シカ!?」
「バーカ」
「ど、したの。急に」
「急にじゃねえよ。マジで焦ったっつうの」
「ごめ…何か勘違い、させた?」
「ああ。心臓止まるかと思った」
「あんなシカマルの顔、初めて見た」
(お詫びは、もう一回ってことで)
耳元で囁いて、ふたたび唇を合わせる。
今度は、彼女をたしかめるようにゆっくりと。唇のりんかくを辿り、下唇のやわらかさを味わう。
「あんな顔もするんだね」
「……っ、忘れろって」
「可愛かった」
上から見下ろせば、ほどいたままの黒髪が顔の周りにばらけて、俺と彼女だけの秘密の空間が出来あがる。彼女の顔しか見えない、彼女にも俺の顔しか見えない。そっと瞳を眇めたら、彼女がちいさく息を飲んだ。
「今は色っぽいけど」
「んなこと言ってられんのも、今のうち」
俺の下で身を捩り、ふたたび溶け始める彼女を網膜に焼き付ける。キスの合間に名前を呼べば、熱っぽい吐息が答える。
その小さな空気のゆらぎで頭はぼんやりして、体がじわじわおかしくなっていく。まだたどたどしい反応が愛おしくて、噛み殺す声が愛おしくて、目眩のしそうな感情の奔流に吐き気がした。
やっぱり、箍の外れた禁欲主義者は頂けねえよな。
遠くで除夜の鐘が鳴り響く。ふたりきりの新年が静かに近付いていた。
ストイックの末路また勘違いだって言っても、いまさら逃がしてなんてやらねえから。- - - - - - - - - - -
2010.01.06
行くよ、一緒に。のふたり