キミのための理想論
「ホントにごめんなさい。私、好きな人いるんです」
外出先からデスクに戻る途中、貨物用エレベーターの脇で聞こえた声に、シカマルは眉をひそめる。なんともあっさりした振り方。
多分、あの声は彼女だ。顔は見えなかったけれど間違いない。
いらついたのは、相手の男も場所と時間を考えろよな、とかそういう常識的なことではなくて、どちらかといえば彼女が断った理由のせい。
単なる同期入社の男友達の分際で彼女に重大な隠し事をされていたような不快感を覚えたなんて、とても言えないけれど。
「シカ、聞こえてた?」
「わりぃ、偶然な」
「全然。変なとこ見せちゃってこっちこそごめん」
正体もわからぬ彼女の想い人に妬けた。隣席に戻るなり片手を顔の前に立てて謝る彼女を、まともに見れないのは、実はそういうこと。
「……別に」
「行こうか」
おう。何気ない返事に聞こえるように予想以上の努力をしつつ、彼女のためにドアをあける。いらついていても身体に染み付いた習性は消えないらしい。
「お疲れさまでした」
声を合わせて事務所を出ながら、舌打ちを足音に紛らせた。
◆
「で…、さ」
「…なに?」
アルコールで口の滑りが良くなったのを見計らって話を切り出したとき、一見ポーカーフェイスのシカマルの心臓では異常な心拍数をカウントしていた。
「お前好きな奴なんていたんだ」
「ああ、さっきのアレね」
「なんつうか意外で…な」
「そうかな?」
「断るための口実とか」
だったら良いのになと誰よりも強く願っているのは、俺だ。
「私が嘘ついたってこと?」
「違うのかよ」
「いるよ。めちゃくちゃ好きな人」
めちゃくちゃ、好き――何気ないひとことが、鋭利な刃物のように胸に刺さる。しかも彼女は見惚れそうな笑顔だ。
無自覚な女ほど男にとって残酷なモンはない。いつだったか親父の言っていた台詞が、いまさら身に染みる。
さっきこいつにフラれた男といまの俺と、どっちのほうがより胸が痛いんだろう。
「へえ、初耳」
「嘘?言ったことなかったっけ」
「多分な」
いきなりうっとりと遠い眼になった彼女が、いったいどんな奴を思い浮かべているのかは分からないけれど。少なくとも隣に座っている俺ではなさそうだ。
「好きな人、っていうか…」
カウンター席に並んでいる彼女と肘が触れるのは嬉しいのに、これ以上その男の話を聞かされるのは堪らない。さっきまで事実を知りたがっていたくせに、今では水を向けた自分を呪いたくなっている。
「んだよ?」
「人じゃなくて、厳密には好きなキャラなんだけどね」
気持ちをわずかでも落ち着けようと飲んでいたビールを、ぶっ、と噴き出しそうになって、寸前でなんとか思いとどまった。
「……は?」
「キ・ャ・ラ!私の好きなのは二次元世界の男なの。聞こえなかった?」
「聞こえてるっつうの」
「そう」
ホントに並の人よりはずっと愛してるから、嘘はついてないよ。と付け加えて、ビールをあける笑顔はすがすがしい。
「つうか、あの男そんな理由でフラれたのかよ」
「そんな理由って何よ、失礼な」
俺はと言えば、告げられた事実にひとまずはホッとしながらも、芽生えた一抹の不安を無視できずにいた(つまりは俺もあの男と同じ顛末を迎えるのだろうから)。
「失礼なのはお前だろ」
「なんで?」
「二次元を理由に断るなんて、俺ちょっとアイツに同情するわ」
そしてそんな女にひそかに惚れちまってる自分にも、な。心のなかで呟いたら、やけに勢いのある彼女の声。手にしていたジョッキを思わずそっと降ろして向き直る。
「ちょっと待て!」
「は?」
「私、かなり本気なんですけど」
「架空の存在に、かよ」
「架空じゃないし。毎日私のなかで動いて喋ってるんだから」
彼以上にカッコイイ男なんてそうそういないし、今日告白してきた男なんて比較にもならない。下手な男に惚れるよりずっとマシでしょう?語気を荒げて続ける彼女に、苦笑することしかできない。
「でも架空だろ?」
「うるさいよ、シカマル」
「いや、別に止めはしねえけどよ」
「じゃあイイじゃん。だってもはや恋だと思うもん」
「恋…か、それはちっと困るかな」
「なにが?」
「いや。こっちの話」
「あ、そ……お代わり下さーい」
「俺も」
「生二つ」
片手でピースサインを作って店員に大声を張り上げる横顔を見つめて、かなり複雑な気持ちでこっそりため息をついた。
んだよそれ、よりによって俺のライバルは二次元の男なわけ?マジで勘弁してくれ。
「ちなみに…さ」
「ん?」
焼鳥を頬張りながら、店の喧騒のせいか必要以上に近づく彼女の肩が触れる。
「その、お前の好きなキャラってどんなタイプ?」
「えー?聞いてくれるの!?」
「まあ…一応な」
「シカマルって漫画なんか興味あったっけ?」
そう言いながら途端に瞳をキラキラと輝かせる彼女を、素直に可愛いと思った。
「黒髪でね、髪の毛は長めで。三白眼でかなり目付きが悪くて」
「…へえ」
「唇が薄めで耳にはピアスとかしてて、いつもダルそうで」
「………」
「頭悪くないくせに超絶面倒くさがりで、暇さえあれば昼寝とかしてて」
「……………」
「クールぶってスカしてるけど、実は意外にガキっぽくて鈍臭い一面とかもあって」
夢見るみたいにうっとりした顔して語ってるけど、そんな男のどこがいいんだか俺にはさっぱり分かんねえ。
やっぱ女の考えてることってのは謎だ。
「あんまりべらべら喋らないしポーカーフェイスでちょっと意地悪なんだけど、犯罪級に絶妙のフェミニストで」
「は? なんか矛盾してねぇ?」
「あと、声がイイ!」
「はあ………」
「たまに眼鏡とかかけるのもイイ!」
「眼鏡、ね…」
「そう言えば、シカマルにちょっと似てるかも」
それは確かに自分でも途中ちょっと思ったけど。さすがに、認めたくないところもあるから。
「ん!似てる似てる、眉間にシワがデフォルトのとこもそっくり」
「はいはい。お前趣味わりぃのな」
「そんな厭味言っちゃう感じも似てる気がしてきた」
なんで今まで全然気付かなかったんだろう、と首を傾げる彼女があまりに可愛くて。
「そういうのを俺本人に言っちまうとこが、お前らしいよな」
「あれ…嫌だった?」
「いーや、逆」
「…逆?」
「嬉しい、ってこと」
「なんで…」
「だって もはや恋、なんだろ?」
低く耳打ちをしてみたら、ちいさな耳たぶがほのかに染まった。
キミのための理想論んじゃもう俺でイイんじゃねぇ?