名前忘れた
朝は誰よりも早く出社して、上司のデスクにそっとチョコレートを置いた。
そのうち、義理チョコの山に紛れて目立たなくなってしまったけれど、それで良いと思った。自信のない私には、義理だか本命だか分からない程度の匿名チョコがお似合いだから。
◆
「ライドウ、どうした?」
「ん。いや…」
義理チョコたちの中に紛れて、一つだけ差出人の分からないチョコレートがあった。やけに高そうなラッピングに包まれた、匿名のそれには「いつもありがとうございます」とブルーブラックの万年筆で綺麗な手書きのメッセージ。
色気も何もない付箋にハンコを押して、送り主の名をふてぶてしく主張する他のいくつかのチョコとは、明らかに違う空気を醸し出している。
「年々貰うチョコの量増えてんじゃねぇか」
「ゲンマの貰うのとは全然意味合いが違うけどね」
「義理チョコなんて、どうせ御返し狙いだからなァ」
「ほどほどが一番だよね」
言いながら、俺の机の上に並んだチョコレートを妙齢の独身オトコ三人で眺める定時過ぎ。
「案外義理に紛れて、本命も潜んでるんじゃないの?」
ほら、コレとか。アオバが言いながら持ち上げたのは、さっき俺が気になった匿名のチョコレートだった。
「やっぱ、そうかな!?」
「なに急に嬉しそうな顔してんだよ」
「ライドウはホント分かりやすいよね、昔から」
「いいだろ!本命チョコなんて貰うの久々なんだから」
俺はいつもモテモテの女誑しゲンマとか、密かにモテる有望株アオバとは違うんだ!放っておいてくれ。そう主張してアオバの手から箱を奪い取る。
「でも、名前書いてないんだよな…」
小さくライドウが呟けば、アオバとゲンマは不思議そうに顔を見合わせる。
あれ?俺なんか変なこと言った?もしかしてちゃんと名前書いてあるのに、俺にだけ見えてないとか。裸の王様的に、本命チョコレートを貰うにふさわしい人にしか見えないとか。
「ライドウ、気付いてないの?」
「………俺には見えない」
「ったく、だからお前はモテねえんだよ」
「モテない男には見えない文字で書かれてるんだろ?」
「バカ」
盛大にため息を吐くゲンマとアオバを、縋るように見つめる。
「その字…見覚えあんだろ?」
「くせのないキレイな字なんて、ウチの社にそうそう何人もいないよ」
「…………」
「ブルーブラックのインク」
「名前書かないところがあの子らしいよね」
すっかり事情を把握しているらしいふたりの言葉を聞きながら、ライドウは舞い上がった頭を必死に働かせる。
くせのないキレイな字、ブルーブラックのインクの万年筆、名前を書かない謙虚さ、そして義理チョコを当然くれそうな律儀なタイプなのに、義理チョコ群に名前のなかった彼女。そう言えばいつも上がってくる業務報告書の文字に、見覚えが……って、彼女!?
「まーじーかーよぉぉぉーーー!!!」
「うるせぇ、ライドウ。帰るぞ」
「両想いみたいで良かったじゃない」
もう、ふたりの言葉なんてまったく聞こえなかった――
名前忘れたもちろん、ワザとです。あなたが気付いてくれるかどうかに賭けてみました。