底辺へ沈むコトバ

 噛み過ぎて味のなくなったガムを私はいつまでも捨てられなかった。味がぼやけ始めたらひとつ、更に味が消える前にひとつ、新しいカケラをほうり込む。
 噛み締める。ひとつ、もうひとつ。際限なくそれを続ければ、口内の固まりは少しずつ体積を増して、やがて上手く噛めなくなる。終いにはすっかり顎が疲れて鈍い痛みに襲われるのだ。



「……記念日、か」

 低い声が静かな部屋に響く。不意にこぼれた自分の声に驚いたけれど、彼女からの返事はない。
 隣に寝転んで、片肘をつく。窓の外に広がる青空をバックに、ぼんやり浮かぶ女らしいシルエット。逆光のせいでよく見えない横顔を、こっそりと堪能できるのは案外幸せかもしれない、とシカマルは唇を歪めた。


「何か、言った?」

 忘れた頃に返ってきたやわらかい言葉。タイミングのずれた理由は分かっている。本を読んでいる時の彼女は、半分ここからいなくなるから。身体はそこにあるのに、頭も心も、どこか俺の見えない所へと飛んでいるのだ。

「いや、なんも」

 いい天気だなァ。続く独り言めいた呟きに、また返事はない。
 ぺらり、ページを繰る音。入りこむ太陽の匂いを感じながら、あくびを漏らして伸びをする。身体と一緒に、ベッドのスプリングが軋んだ。
 たまの休みをこうやってだらしなく過ごすなんて、ホントどうしようもねえな。ただでさえ忍と一般人ってだけで会う時間も少ねぇのに、こう放ってばかりいたら、そのうち愛想尽かされるかも。そんなの耐えられねえけど。
 柄にもないことを考えては、頭をガリガリと掻く。


「……ほんと。いいお天気だね」

 何テンポも遅れてはいたが、彼女はちゃんと本から顔をあげ窓の外をみてから、嬉しそうに俺に顔をむけた。
 セックスの最中以外にこんな風に真正面から見つめあうのは久しぶりで。想像以上の気恥ずかしさに、目をそらす。頬が熱い。

「どっか出かけるか」
「お休みはちゃんと休むものだよ」
「でも、な」
「気を遣われると傷付くんですけど」
「傷付くって…んだよそれ?」
「言葉通り。シカマルはまだ私を信用してないのかな、って」

 それとも、ご機嫌取らなくちゃならないような後ろめたいことでもあったんですか 奈良シカマルくん?と、一瞬だけ俺を見つめた楽しげな瞳は、すぐに活字へ戻っていく。

「お前が、退屈じゃねぇかと思っただけ」

 彼女は不思議そうな顔をしたあとに笑顔を見せた。

「いまだかつてシカと一緒にいて退屈を感じたことなんて一度もないよ」
「へいへい」

 んだよその、素の殺し文句は。目を反らしたままふたたび頭を掻けば、ふっ、と笑って彼女は本に瞳を落とす。

「とにかく、余計な気は使わなくて結構デス。忍の休日は休むのが仕事!」
「…すんません」
「だから、寝ててイイよ」

 文字列を追いかけながら、視線は俺からはなれているけれど優しい声。
 ちょっと待て…俺と一緒にいるからっつうより本があるから退屈しねえだけじゃねえの?覗き込んだ紙面には細かい字がびっしりと並んでいて、それを上から下へとなぞる瞳。
 彼女は本当に手のかからない女だと思う。俺がここにいてもいなくてもどちらでもいい、という空気を漂わせているのを見れば、逆にムキになってしまうのは、俺が彼女よりガキだからだろうか。
 きっと俺が任務で里にいない間も、こうやってひとりの時間をすごしているのだろう。そう思ったら、さっき真っ直ぐに捉えられて反らしたばかりのその瞳に、どうしても自分を映したくなった。

「な。お前ってさ」
「…………」

 俺はまた彼女に目線を戻す。
 俯いた頬に長い睫毛が影を落とし、文章の起伏に応じて眉間に薄くシワが浮かんだり、瞳が潤んだり。この反応は、ドキュメンタリーか小説だろうか。小さく変わる表情はいくら眺めていても飽きない。

「いつもそうなのかよ?」

 俺が里を開けている間も、何事もなくお一人様時間を満喫している姿が目に浮かぶ。手のかからない女だってのは、彼女に惚れている要因のうちのひとつでもあるけれど、今はほんの少しさびしい。
 文字の狭間を旅している彼女からは、返事はなくて。さっきよりも深く世界に入りこんでいるのだろう。俺は片肘を突いて頭を支えたまま、そっとため息をついて、彼女の観察を続けた。


 くすん、鼻を啜る小さな音。僅かに下がる口角。ふるえている睫毛、すっと深くなる眉間のシワ。
 これは――思った瞬間には、もう頬を雫が伝っている。
 不思議だなと毎回感じるのだが、日常生活ではほとんど涙を見せないこの女、書物や他人の思い出話には呆気ないほど簡単に涙をこぼす。

「ほら」
「え?」

 頬をすべる雫に手を伸ばせば、驚いた顔が俺をとらえた。自分が泣いていることにも気づかなかったのだろう。片手で本のページを押さえたまま、固まっている。

「ったく、ガキみてえ」

 そう言って指先で雫を掬い、濡れた髪を耳に掛けてやりながら、こっそり自嘲した。やっと彼女の意識を独占できている今をひそかに喜んでいる俺のほうが、よっぽどガキみてえなんだけど。

「感情移入しすぎじゃねーの?」
「………」

 きゅっと眉根を寄せた表情を向けられて、また視線が釘付けになる。
 嗚咽を噛み殺して感情を呼吸に混ぜたような、細いほそいため息を吐く唇が小刻みに震えている。

「――またな、って」
「ん?」
「また…って短い台詞がね、」
「ああ」
「たった2文字の台詞が、どうしようもなく重たい意味を持つことがある」
「………」
「そんな感覚って、分かるなあと思ったら、つい…泣けた」

 そう言い終えた後。唐突に笑顔を作ると、涙なんて嘘みたいな明るい声を出すから。なぜか痛々しい。

「お祝いでもしようか」
「………何の」
「さあ」
「んだよそれ」
「シカマルが自分で言ってたじゃない、記念日かって」
「あ?あぁ…つうかお前!」

 ちゃんと聞こえてたのかよ?俺の焦った台詞にふんわりと笑う。

「記念日、おめでと」
「おぅ」
「って何の記念日だっけ…」

 シカマル、そういうタイプじゃないと思ってたのに意外。そう言って首を傾げる姿は可愛いけれど、何の日だか気付いてくれないのは少しショックだ。

「女のがそういうのこだわるモンじゃねえのかよ」
「さあ。気にする子は多いかも」
「何の日か、マジで覚えてねえ訳?」
「ん……だめ?」
「別にダメじゃねーけど」

 ダメじゃない。むしろ、付き合い始めた日をしっかり覚えている自分の女々しさに嫌気がさす。でも、無駄に性能のイイ記憶装置は勝手にそういう記録を残すんだ、仕方ない。つうか死ぬほど恥ずかしい想いをして告白した俺のあの瞬間を、お前がその程度にしか覚えてないなんてちょっと報われねえ。大事にしたいと思ってんのは俺だけ?と心の中で不服を申し立てていたら、やけに切羽詰まった彼女の声が聞こえた。

「何の日か、なんてどうでもいい」
「…?」
「シカが…シカマルが、無事に任務から戻ってくれたら。それだけで充分…だから。味のなくなったガムを噛み続けるのは、もういやだから」
「ガム?」

 ガムって…どこに話飛んでんだよ。意味不明の文脈を繋げる理由を考えつく間もなく、彼女の唇からは次々に言葉があふれだす。

「今頃どこでどんな相手と戦っているんだろう、とか、怪我してないかな、とか、ちゃんと食べてるかな寝てるかな、とか、どんな顔してるんだろう、とか」
「……考えすぎだろ」
「顔を思い出したらもうだめで、早く会いたいとか思ったらどうしようもなくて。周りの酸素が急に薄くなって息が詰まって、吐き出さなくちゃいけない息を吸い込んで、吸って吸って苦しくて、時間が長くて長くて。言葉にするのが怖くて」
「………」
「どうか、無事で。無事でって噛んで、かんで、噛み締めて……無事で、って。腕を伸ばして伸ばして伸ばして伸ばしてその末に虚空を掴む。ひやりとした感覚にぞわと背中を這った恐怖を噛んで、かんで……噛んで」
「…っ!」

 いつもは穏やかに吐き出される呼吸を乱し、書物のせいではない涙を流して顔を反らす彼女を、強引に抱き締めた。

「バーカ。心配し過ぎ」
「……」
「俺、これでも結構ヤルんすけど」
「分かってる…けど」

 ああ、そういうことか。
 また――って、何でもない単語で彼女が涙腺をゆるめた理由。
 俺がどんな任務に着くときにも、ただ「気を付けて」と短い言葉だけを掛ける意味。その一言にこもる意味。きっとそれはこんなふうに言葉にすれば止め処なくあふれるほど沢山の想いが、彼女のなかで渦巻いているからだ。心配も、不安も、怖さも、愛情も。

 噛み過ぎて味のないガムをいつまでもいつまでも噛み続ける。
 どうか、無事で。無事で……また。

 ぞくり、ぞくり、俺のいない間の彼女を思えば、背筋がふるえた。腕の中で小さく揺れている身体が愛おしすぎて、どうにかなりそうだと思った。
 
「安心しろ」

 必ずまた、ここに帰って来るから。耳元で低く囁いて、額の生え際にキス。しょっぱい瞼の端にキス。

「おかえり」
「ただいま」

 笑顔で、鼻の頭をコツンと合わせて、濡れた唇にキス。ひとつ、もうひとつ。また、ひとつ…――

「お祝いに欲しいモンあんだけど」
「なに…?」

 両手の指を絡めたままベッドにぎゅっと縫い付けて。



「決まってんだろ」

 上から真っ直ぐに彼女の顔を見下ろすと、そっと口の端を歪めた。



底辺へむコトバ

何度でも「気を付けて」って言うから、何度でも「ただいま」って言って。
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