しずかなよる

 "悪くない" が "良い"にシフトした瞬間、というのはかならずどこかにあるはずだ。そのボーダーラインはどこだったんだろう――
 乱れたままのシーツの皺よりも、首筋にかかる女の寝息を気にしながら、シカマルは考えていた。
 例えばこの女のこと。彼女にたいする俺の認識について。最初から運命に頭を殴られたように恋に落ちた訳ではなくて、ごく当たり前の女友達だと思っていたはずなのだ。"悪くない" が "良い"にシフトした瞬間までは。
 そのタイミングがいつだったのか、そのとき自分に何が起きたのか。あとになって必死で思い出そうとした頃には、たいていさっぱりわからなくなっている。

「いつから、だ…?」

 独り言めいたシカマルの呟きに、夢と現の狭間をたゆたうような柔らかい女の声が続いた。

「ん……え?」
「いや、なんもねえよ」

 薄目を開きかけた彼女にそっと手を伸ばし、乱れた髪を数度なでつける。
 何でもない。
 いつから?何故?これまでに何度も思い出そうとしたけれど上手くいかなかった。甲斐のない思考を繰り返しているうちに、面倒になって諦める。たとえ思い出せたところで目の前の現状は変わらないのだ。
 それでも思い出せなかった微かな気持ちの悪さはずっと残っていて、折にふれ記憶を辿る悪癖をやめられない。ボーダーラインを越えた原因が分かれば、結果を変えられるとでも思っているのだろうか。俺は。

「別に変えてえなんて、これっぽっちも思ってねえのに」

 変えたい訳ではない。ただ、自分の傾倒ぶりは行き過ぎかもしれないと時々不安になるだけだ。こうして肌と肌をぶつけ、ベッドを軋ませて、張り付いた胸と胸から彼女の体温を感じ、全てがぐちゃぐちゃに混ざり合ったあとは特に。彼女のことが愛おしすぎて、その感情が正常の域を出てしまいやしないか、と。
 そんなとき、決まってシカマルは過去の記憶を辿る。


 気が付けば、好きで好きで堪らない所まで感情が膨らんでいた。周りの女達と彼女と、どこがそれほど違うのか、何が好意を増幅させた原因なのか、頭はまだ受け入れていないのに身体は勝手に反応する。
 彼女の傍にいれば脈拍が早まる。声を聞けば響きを忘れまいと聴覚が感度をあげる。無表情でいるのに異常な労力を伴う。溜まっていく想いを吐き出したいと、身体の奥から突き上げてくるモノに翻弄される。そのうち綻びを他人に見咎められた。

「なんかシカちゃんアイツの前でだけ変じゃね?」
「…バーカ、気のせいだろ」
「気付いてねえのは本人達だけだってばよ」
「るせぇな、放っとけっつうの」
「あからさまに態度に表してるのがわりぃんだって」
「…………」

 うるさい外野に辟易して、やっとのことで告白したら案外あっさりと受け入れられた。順当な流れを踏んで付き合って、デートして、はじめて手をつないだときには、どくどくと身体中が波打ってまるで心臓が指先に移った気がした。
 拙い手つきでお互いの身体に触れ合えば、ぎゅうぎゅうと胸を絞られる。初めて見る、初めて触れる彼女の肌に胸の疼きが湧き上がる。

「…っベ」

 震えるてのひらで肩を抱いてキスをして、堪え切れない衝動のまま やみくもに抱きしめて。無我夢中でセックスをして、隙間なくぴったりと触れ合って細い肩口に鼻先を擦り付けた瞬間にはこのまま死んでも悔いはないと本気で思った。
 絶え間なく続く口付け、自慰行為では得られぬ快楽。他人から及ぼされる熱は、言葉にはならない快で俺を揺さぶる。心も身体も一緒くたにして。胸の奥底から引っ張り出された想いがぐらぐらと揺れる。せり上がる欲が柔らかく包まれる。声にならない吐息が混ざりあう。
 死にそうなくらい気持ちいいってのはこういうことなんだ、と心と身体が同時に悟っていた。
 いまもそうだ。


「お前以外だったら、そう思えたかどうか分かんねぇし」

 呟いて、シカマルは彼女の白い額にそっとくちびるを落とした。

 その後もおそらく慎重に順調にごく一般的な年頃の男女並の経験を一通りこなして、すれ違い、ひそかに嫉妬し、雨降って地固まる的な事態も乗り越えつつ現在に至る。
 それなり以上の関係は築けているつもりだけれど、今でも時々彼女のことがわからなくなる。そのわからなさが、ますます俺を引き付ける。


「シカマル…」
「…ん?」

 ちいさな声に顔を向ければ、いかにもずっと起きていましたという表情がカーテンを開いた窓からの月光で見えた。

「どこかで誰かが泣いている気がしない?」

 そう問われたのは、さんざん身体を重ねて心を交わし合った(と少なくとも俺は思っていた)直後、ある静かな夜のこと。
 持っている少ない知識上、情事後の女は幸せそうに瞳を潤ませたまま黙ってぐったりしているか、やたら甘ったるい言葉を欲しがるモンだと思っていた俺は、彼女の台詞に虚を突かれて変な声を漏らした。

「……へ?」
「こう静かな夜は、そんな気がする」
「誰かが泣いてるって?」
「そう。シカマルは、そんな風に感じたことはない?」

 こういう時の彼女は、いつもの姿から想像出来ないほど脆くて危うい空気をまとっている。目を離せない。
 誰かがどこかで泣いている。自分にそんなことを思った経験があるかどうかよりも、何故彼女がいまそんな質問をするのか、ということが気になって仕方なかった。
 たしかにこわいくらい静かだ。腕枕のまま並んで空を見上げれば、星の降る音が聞こえる錯覚に陥りそうに、藍色の中 ちりばめられた光の粒がはっきり見える。

「どうした、急に」
「急にじゃなくて。ずっと思ってた」
「…………」
「静かな夜は、いつだって、どこかで誰かを泣かせている」

 すうっと目を眇めて、彼女は細い腕を空に伸ばした。藍色のなかで際立つ5本の白さが消えてしまいそうで手を伸ばし、捕まえる。
 分からない。彼女のことが分からない。
 分からないことで胸の奥がざわつくのは、分かりたいから。
 誰かが泣いている。それは、彼女がいま泣きたいということだろうか。それとも、かつてこんな静かな夜にひとりで泣いたことがある、という告白?

「そうかもな」
「…そう、なの。たぶん今も」

 静かな夜に、声も立てず、ひっそりと。
 泣いているのは彼女だ、と思った。

「おいで……」

 掴んだ指を引き寄せて、彼女をそっと胸におさめる。抵抗もみせずすっぽりと腕の中におさまった身体を、抱き枕のようにゆるく抱きしめれば、それで充分。
 彼女の問い掛けは俺を惑わせるものでなく、貫くように真っ直ぐ心に届く。上手く言い表せない不安に囚われている、と告げる言葉。
 彼女の中の何かは、俺にちゃんと伝わっている。そのことに、彼女も気付いている。委ねられた細い背中を、小さな子をあやすように優しく撫でおろせば、強張っていた肩からゆるゆると力が抜けた。
 短い一つの質問は、たくさんの言葉を羅列するよりずっと雄弁に彼女を語るのだ。
 どこかで誰かが泣いている気がしない?
 ここで私は泣いていてもイイ?

「大丈夫だっつうの」
「………なにが?」
「なにもかも、かな」

 なにもかも…か。俺の台詞を繰り返して、彼女はそっと繋いだ指先に力を込める。

「シカマルがそう言うのなら、そうかもしれない」
「……ああ」
「泣ける夜も必要。ってことかな」
「まあ、そんなトコ?」

 いつだったのか分からないボーダーラインを振り返ることも、人知れずこっそり泣くことも、たぶん何の役にも立たない大いなる無駄ってやつで。でもその無駄は、まだ若い俺達にはきっと必要なことなんだ。めんどくせぇけど。

「疑問形なのがシカマルらしいね」
「うるせぇよ」
「…………ありがと」

 泣き出しそうなのにホッとした表情を見せられたら、同じように俺もホッとして。鼻先をくっ付けたまま少し笑う。
 優しい感触に、心臓をグッと抉られるような愛おしさが込み上げる。向かい合ったまま見つめ合えば、一瞬二人の息が止まって。静かな夜に溶けるベッドの軋みと溜め息みたいなまるい声。

「おう」
「シカマル…」

 見上げる潤んだ瞳に誘われて、そっと唇を重ねれば、せり上がる想いがそこから溢れだす。ここにお前がいる。心臓をギリギリと搾られる愛おしさがここにある。それをぶつければ、間違いなくやわらかく受け止めてくれると信じられる。それだけで、ボーダーラインを越えた原因なんて、どうでもいいと思えた。


しずかなよる
たぶん、俺も泣きたかった――
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