重ねるてのひら

 うるさいなあ。ホントうるさい。向かいの席に座った女友達ふたりが私にむかって喋る言葉は、少し前から雑音にしか聞こえなかった。まるで異国の言語のように、脳の表面をざらりと撫でてすり抜ける。

「えー、一度も言われたことないの?」
「カレシなのに?」
「…ない」
「好き、なんて挨拶みたいなもんでしょう。毎日言うし聞きたいし」

 そうなのだろうか?私とシカマルはそんな言葉がなくても何の支障もなく一緒にいるし、言おうとも聞きたいともとくに思わない。むしろ軽々しく簡単に口に出来る甘い言葉ほど嘘くさくてわざとらしいものはないと思う。

「別に…言われなくても構わないけど」
「嘘だー!」
「嘘じゃないよ」

 わざとらしく甘すぎるものは好きではない。食べ物も言葉も。これは私の個人的趣向の問題なのだから放っておいてくれればいいのに、どこにでも他人の人生に介入したがる人種というのはいるものだ。こうやって簡単に踏み込んでくるくせに、責任をとる気はまったくないというタイプの女の子。

「一度も好きっていわれないのにカレシって、信じらんない」

 信じられないも何も、シカマルは現に私の付き合っている特定の異性で。そういう間柄の相手を一般的には彼氏と呼ぶのだから、それ以外の適当な呼び名は見つからない。

「でも彼氏だし」

 揃って心底呆れた顔で見つめられたけれど、たいして仲の良くない彼女たちに信じてもらいたいとも理解してもらいたいとも思わなかったので、それ以上言葉を続けるのはやめておいた。

「奈良くんに言ってもらいたいとは思わないの?」
「……うん」

 言葉などなくても彼の手が私に触れるやり方はいつも壊れ物を扱うように優しかったし、彼の瞳は私を映すたびに柔らかく眇められる、それだけで充分だった。

「"好き"って言われないと不安になったりしない?」
「どうしても"好き"って言いたくて堪らなくなったりしない?」
「うーん……しない、かな」

 一緒にいる間は不安だと思う隙なんてまったくないくらい目の前のシカマルの存在でいっぱいになる。ただ会話しているときも、身体を重ねているときも。
 胸の中が苦しくて堪らないことはあるけれど、それは"好き"と言う言葉を吐き出すことよりも、慎重に一度だけ彼の名前を呼ぶことで満たされるような種類のものだ。
 いま彼女たちが多用している「好き」ってなんだろう。シカマルへの気持ちは、彼女たちの言う「好き」と同じなのだろうか。

「相変わらず冷めてるよね」
「そう、かな?」
「まあいいや…」

 強がりもほどほどにね、と言い残して立ち去る二人を見送り、近づいてきた店員を呼び止めた。


 運ばれてきたアイスコーヒーをストローで掻き交ぜながら、さっきまでの彼女たちとの会話を反芻する。
 好き、か。
 私はリンゴが好きですの「好き」と、私は彼のことが好きですの「好き」。どちらも同じ「好き」という語を使っているけれど、示す内容は全然違うじゃない。それでもやっぱり二文字の呪文で彼女たちは救われているんだろうか。
 リンゴが好きっていうのは噛み砕いたときの触感とか匂いとか味に対する美味しさを表すもので、特定の人物に向かう好きはそれとは全く別の感情的なものを指している。好きの意味が異なる。
 違うものを指しているのに同じ「好き」という言葉を使うのは、もしかしたら真実から遠ざかることなんじゃないかと思った。
 だったら自分のなかにあるこの感覚を表すのになんと言ったらいいんだろう、たしかにここにあるのに。

「わりぃ、お待たせ」

 低く柔らかい声を捉えたのと同時に後ろからポスンと頭を撫でられて、肩が揺れる。シカマルだ。
 髪に潜り込む指先の感触は、飼い猫を甘やかすように無造作で、なのにひと撫でされただけでふわりと胸がゆるんだ。

「退屈してねぇ?」
「ぜんぜん」
「だと思ったけどよ」

 滑らかな動作で向かいの席に着くと、涼しい瞳が私を捉えて少しだけ角度を変えた。

「考えてた」
「今日は何をすか、お嬢さん」
「感情を定義する言葉について」
「またえらく漠然としたこと考えてんのな」
「悲しい、切ない、美しい、醜い、好き、嫌い。どれも精確さや客観性に欠けていて確かな語じゃないなあ……って、ぐるぐる」
「なるほど。で、眉顰めてんのか」

 くつくつと咽喉の奥で笑うシカマルの姿に見とれていたら、眉間を長い指先でぴん、と弾かれる。痛くはない、くすぐったくて淡い笑いが浮かんだ。

「不安定なときはついついバカバカしいことを考えこんだりするアホな自分に、あとでうんざりするんだけどね」
「別にバカバカしくねぇだろ」
「そう?」
「すげえお前らしいんじゃねえ?」

 そう言って向かいでシカマルは口の端を歪める。その表情をとても「好き」だと思った。漠然とした表現だけど、その言葉が浮かんだ瞬間にふわふわ舞い上がるような気がした。

「で…なんでんなこと考えたんだ?」
「女友達が、ちょっとね」

 好き。自分の内側を意図的に押し上げる感覚に、背筋が震える。病み付きになる。好きが更なる好きを引きずり出す。だけど、ただ反射的に浮かんだ言葉がそれだったというだけ。

「また面倒臭いことでも言われたか」
「まあね」

 でもこの感情を簡単に「好き」と言う言葉だけで済ますのはどこか違う。それだけじゃ足りない、私の中にあるのは食べ物の好みと同じレベルの感情ではないのだから。じゃあ代わりに何と言えばいいんだろう。

「ったく、女っつうのは」

 コーヒーカップを持つ彼の指先が目に映った瞬間、心臓が煩く跳びはねた。瞳と瞳が交わったら、上手く酸素が吐き出せなくなった。その目に映っているだけで動悸はどんどん早まって、後ろめたくないのに目を反らしたくなった。そのくせシカマルがずっとそんな目で、じわりと潤んで包み込むような視線で、私を見続けてくれたらいいのにと願っている。
 そういう面倒臭いうえに矛盾した感情も全部引っくるめて「好き」ということならば、やっぱり私は簡単に「好き」とは言えないし、言ってほしくもないと思った。だから代わりに名前を呼ぶ。

「シカマル……」

 テーブルの上無防備にてのひらを投げ出せば、当たり前のように指先が包まれる。カップで温もったあたたかさが、てのひらからじわじわと滲み入る。

「…ん?」

 相槌の短い音はおそろしく優しい響きで、何度「好き」と繰り返されるよりも、いま一番聞きたかったのはこの音だったんだと気が付いた。
 いくら言葉を尽くしても言い足りない想いは、こんな些細なたった一音に詰まっている。


重ねるのひら

そうやって名を呼ばれるたび今すぐ溶けあいたくなるのは、俺だけの秘密。
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