儚計と散らんや
真新しい畳の香を嗅ぎながらお茶をいれる、非日常の空間。趣味のよいしつらえの施された旅先の一室である。
夫婦みたいだな、と思いつつシカマルに湯呑みを手渡したら、くつろいだ声が言った。
「珍しいよな」
「なにが」
「お前が旅行に行きたがるって」
「初めてだね」
こうして揃って温泉宿にきているわけだが、実のところ旅に行きたいというのは直接的な目的ではない。
自他ともに認める面倒くさがりの私は、どこかへわざわざでかけるよりも部屋で何かを読んだり書いたりすることを好む典型的インドア派だ。旅を否定はしないし、出向けばそれなりに楽しいことも分かっているけれど、取り立ててどこかへ行きたい、行かねば、という気持ちになることはほとんどなかった。
旅に似た過程ならば頭のなかで四六時中たどっているのだから、それでいい。
そんな私がなぜ今回はこのような行動に出たのか。それには確固たる目的がある訳なのだが、ひとまずちょっと置いといて。
「ここの温泉、有名らしいよ」
「へぇー」
「疲労回復とか滋養強 壮…とか」
「滋養強壮ねえ」
なんで今、口ごもったんだ私。サラっと言えばいいのに。目的はそれじゃないのに。
ニヤリ、と効果音が聞こえそうな顔でシカマルが口角を持ち上げる。違うから!勘違いしないで。
「び、美肌効果もあるって」
付け加えるように言って湯呑みのお茶をがぶ飲みしたら、案の定舌をやけどした。「猫舌のくせに慌てすぎ、バーカ」って言われた。ホントのことなので反論できません。
「飯の前に風呂入ってくっか」
せっかくだから、とわざとらしく付け加えながらニヤつくシカマルを軽く睨んで、そそくさと用意された浴衣を手渡す。是非ともこれを持って行ってもらわねばならないのだ。
「別にTシャツのままでいいけど」
「いやいや温泉宿に来たんだからやっぱり情緒は重んじようよ」
「情緒なァ…」
「そう!情緒!」
「じゃあ、お前も着てくれるなら」
「着る着る!2枚でも3枚でも着る」
「や、1枚でいいっつうの」
やばい。必死さが透けて見えただろうか。でもここでシカマルに「Tシャツ」を選択されてしまったら、私が旅に出た理由の90%が消え去るのだから、引く訳にはいかない。
私に負けず劣らず面倒くさがりのシカマルは、普段から意に沿わぬお願いを滅多には聞いてくれない。お祭りだろうが浴衣姿になってはくれないし、そもそもお祭りに行くこと自体が私たちにとってはかなり高いハードルなのだ。
祭に参加することには私もそれほど執着はない。執着しているのはシカマルの和装である。ぶっちゃけて言えばあのシカマルが“和装で髪をおろしているところ”を一度でいいからどうしても見たいのである。
祭で浴衣シチュエーションが無理ならば、温泉旅行をするのが一番自然で手っ取り早い手段だと思った。そんなつよい願望がひそかにこもりまくった末の今回の旅、なのだ。シカマルには内緒だけど。
「じゃあ、お先」
旅館に備え付けの浴衣一式をなかば無理やりシカマルの手に押し付けて、行ってらっしゃいと追い出しながら、よこしまな野望がどうか見抜かれませんようにとどきどきしていた。
「な!あ!わ!!」
数十分後。
期待通りの姿で戻ってきたシカマルをみた瞬間、意味不明な叫び声がもれて背筋がぴん、とのびた。
期待通り、というより、はるかに期待以上である。きれいに着付けた浴衣の上には肩にかかる艶っぽい黒髪。長い前髪で隠れた表情はいつもの何倍も破壊的にみえた。
「なに変な声出してんだ」
「ななななんでもないよ」
「吃るなっつうの」
吃るわ!なんなのこのそこはかとなくたおやかでカッコイイ人は。私、固まる。
「大丈夫かよ」
「だ、大丈夫…じゃないかもしれないけど、大丈夫。だけどだめ」
「どっちだ」
言って笑うシカマルが、歳よりもずっと大人びてみえる。浴衣姿にまったく違和感がない。和装が似合いすぎていて怖いくらいだ。まだ濡れた下ろし髪から雫がぽたりとおちた。
「どっちだか自分でもさっぱり」
「なんだそれ」
ふっ、とやわらかい笑みを浮かべたその顔がまたとてつもなく麗しい。下ろし髪と、適度にしっとりした鎖骨と、見慣れない和装のトリプルカウンターであやうく瀕死になりそうな私の方へ彼が無造作に手を伸ばす。
2、3度頭をなでて、隣に座ろうとした彼を「ストップ」と叫んで制止した。反射的に。
「ったく、なんだよ」
「立ち姿」
「は?」
「立ち姿を堪能させてくださいませ」
「なんで敬語」
くつくつと笑いを堪えて、シカマルが座るのをやめた。わずかな猫背が深い色の浴衣にしっくり馴染んでいる。
和装の何が好きか、と聞かれれば何と言っても個人的イチ押しポイントは腰回りだと思うのです。女性とは全然ちがう、低めの位置に結ばれた帯。薄っぺらいのに男性独特の量感のある腰骨のライン。裾から覗く裸のすねやくるぶし。そういうものをもう少しだけ観察させて。
「ずっと立ってろってか、」
「ずっとじゃないけど」
ずっと、というか。立ち姿を堪能したいとか主張した3秒後には胸がいっぱいで苦しくなって、すでに降参しそうです。たぶん今、呆けたように限りなく自覚したくない表情になってる。あと5秒だけ、とカウントして息も絶え絶えのまま、すうっと目を反らす。
まさにそれが見たくて待っていたくせに、いざ目の当たりにするとどうしたら良いのか分からなくなった。風呂上がりの肌がいつもよりほんのり上気して、僅かに開き気味の胸元は犯罪的だ。見ていられない。完璧あてられた。
「シカマル、浴衣、似合う…ね」
「そういうことは、ちゃんとこっち見て言えっつうの」
「無理です」
「なんで」
「鎖骨が誘惑する」
「は?」
「温泉入る前からのぼせそう」
「………バーカ」
本日二度目のバカを頂戴しました。自分でもそう思います。
「わ、私も温泉行っ」
「待てって」
がっしり掴まれた手首が熱い。お風呂あがりのせいだろうか。慌てすぎて手ぶらの私にしっかり浴衣一式を握らせると、「楽しみに待ってっから」耳元で低い声を出すシカマルの余裕が憎い。ぜったいわざとだ。
「念入りに磨いてこいよ」
「う…」
「滋養強壮と美肌効果、なァ。まじ楽しみ」
ゆるく口角を持ち上げる彼を睨むこともできず、おぼつかない足取りのまま、よろよろと浴場に向かうのだった。
なんだこの濡れた後れ毛のほつれたうなじと、ほんのり染まった肌と、簡単にほどけそうな浴衣の破壊力は。心のなかで呟いて、ゆるむ口元をてのひらで隠したシカマルがそっと顔を背けるまで、あと数十分。
儚計と散らんや(お前がさっき固まった気持ち、俺にもわかった)