君だけに甘える
運命だとかなんとかを気にするようなロマンチックな感覚を、シカマルは特に持ち合わせていない。子供の頃から何かに興味を持てばたいてい思うさま振り回されて面倒に巻き込まれるのがオチだったから、持つものは少なくてよいと思っていた。
「……はずなのによ」
「ん…シカ、何か言った?」
「いや」
ったく、めんどくせぇことになってんなァ…俺。心の中だけで呟いて、隣にいる女の背にそっと腕を回した。
「なに、思い出し笑い?」
珍しいね、と頬を撫でられてやっと自分の笑顔に気が付く始末。頭のなかでは面倒だと歎いているのに、素直にそんな表情にはならないのが可笑しくて、今度は意図的に笑う。
「ちょっと始まりを思い出してよ」
「シカってそんな懐古趣味だった?」
「お前、変な女だったよな…って」
「うわ、失礼!」
言葉とは裏腹にやわらかく微笑むと、彼女は俺の胸に顔を埋める。細い髪が首筋を撫でるのが心地いい。自分だけに甘えてくる気まぐれな子猫のようだと、滑らかな髪を幾度か梳いた。
「変わんねえよな」
「それ……今も変な女だってこと?」
ちらと顔をあげて悪戯な視線で俺を見据えたあと、鎖骨を甘噛みする硬い歯の感触がむず痒い。
「まあ…な」
「そんな変な女を、出会ったその日に口説いたのはどこの誰でしたっけ?」
運命なんてモンは別に信じてはいないけれど、いま思えばあれがまさに始まりの瞬間、だった。思ってもみないときに、思いもかけない所に、突然現れた女。そんな女に俺はあっさり心の大事な部分を奪われた。
「どこぞの誰かに簡単に懐いた女には言われたくねえんすけど」
「物好き…」
「るせぇっつうの」
ただ最初は、珍しかっただけ。土砂降りの雨のなか、傘を差さずに歩く彼女が、投げやりでも悲劇的でもなく、太陽のしたと変わらずあまりに自然なのですこし気になった。
濡れたいのとも泣きたいのとも違う空に向けられたやわらかい表情は、ちょうど今の彼女の空気とそっくりで。ごく当たり前に雨と寄り添っている姿が綺麗だった。
「寒くねえんすか?」
傘を差しかけて問うまで、俺の存在にまったく気付かなかったくせに、振り返った瞬間にぶるぶると首をふり、ご主人様を待っていた飼い猫のような眼を見せられて心がふるえた。
「見飽きることのないものが、この世にはあるのかな」
例えば、空とか。それとも――そう言って黙り込むと、彼女はじっと俺の目を見据えた。
「さあ…あるんじゃねえっすか」
根拠なんてなにもないけれど、そう言わなければならない気がした。俺は狡い男だ。でも、そう言える気がした。
「家まで送ります」
「……ありがとう」
だって――すくなくとも俺は、きっとずっとアンタに飽きない。降って湧いたその思考が冷静さから外れていることに気付く余裕は、そのときの俺にはなかった。
すっかりずぶ濡れで傘に意味はないのに、おとなしく俺の隣に収まった肩を抱き寄せた。そうしなければ、すぐにどこかへ消えてしまいそうだと思った。剥き出しの細い肩は冷え切っていた。
人間ってこういうモン、女ってこういうモンという常識を、鮮やかに覆されたのはあのときが初めてで。それに気付いたらもう、目が離せなかった。
「で?そんな昔のことを思い出してどうしたの」
「別に…」
見飽きることのないものが、この世にはあるのかな――
反芻するたびに思う。俺は、やっぱりアンタに飽きていない。何度も再確認する。まだ飽きていない、見飽きない。なのに、それを伝えることも逆に確かめることもできない臆病者で。
ほら、つかまえてごらん。いつだってそう言われている気がした。だから一度掴んだ手を、ずっとずっと離せない。いまも。
「シカマル」
「…ん?」
胸にぴったりと擦り寄せていた顔を上げて、彼女が俺を見つめる。まっすぐに。あの頃のことを思い出したら、すり抜けて逃げられそうで。不安で不安で堪らなくなって、そんな自分を持て余すだなんて、弱気すぎてとても言えやしない。だから代わりに、背に回した腕に力を込めて、いつも俺はその淡い髪に鼻先をうずめる。
「見飽きることのないもの…」
「ああ」
「あったね」
「へえー…」
俺の頭を抱きしめて、くつくつと彼女の笑う声に、また胸がふるえた。
「あれれ…?シカマルくんはご不満ですか?」
「いや。物好きだなぁと思ってよ」
「お互い様」
そして。
今度は相槌の代わりに、なめらかな弧を描く彼女の唇をそっと塞ぐんだ。
君だけに甘える運命なんてどうでもいいから、そんな姿を見せるのは俺の前だけにして。