宇宙ならここに

 たとえば行と行の間に、書かれずにあるものを読み取るのに似た、心地よい緊張感を感じる相手だった。

「足の小指の爪とかでいいかな」
「…んだよそれ」

 書かれないもの、言葉にはならないもののほうが、分かりやすく露出されたものよりずっと重要で。大切なことほど、うまく言葉にはならない。彼女に接しているとつい眼に見え、耳に留まるその裏側を見たくなる。

「いつもは忘れてるくらい在ることが当たり前の存在」
「けど、ぶつけたら痛えって?」
「ん。そう」

 そう言って彼女は初めて出会ったときと同じ顔で、ふっ、とちいさく笑った。その顔を見せられるとダメだ。また俺は、さっぱりした短い台詞の奥にこもる想いを深読みしたくなっている。

(いつもは忘れてるくらい当たり前だけど、何かのときには強烈な存在感を示すものでありたい、っつうことか…)

「とっくにそうなってるっつうの」

 わざと表情も言葉も削ぎ落としているからこそ、些細な視線の動きが気にかかる。小さな仕草ひとつが大きな意味を持つのではないかと、四六時中神経を研ぎ澄ます。
 彼女は初めて出会ったころからそうだった。分かりにくい女。だから眼をはなせない。五感を、意識を、集中する。そんな反応を繰り返しているうちに、いつの間にかすっかり彼女に夢中になっていた。

「何か言った?」
「いや。こっちのこと」

 多分俺に伝わっていることもわかった上で、女はやわらかく微笑む。満足げに持ち上がった彼女の頬に、そっと手を伸ばす。条件反射で閉じた瞼の際では、長い睫毛が僅かに震えて。指先の感触を堪能するように、眉間には薄くシワが刻まれる。

「いい顔…」
「……シカのばか」
「ひでぇ」

 俺の指先がいま、確実に彼女の表情を変えた。それがどうしようもなく嬉しくて、くつくつと喉の奥で笑う。その音を堪能するように彼女は眼を閉じたまま首を傾げる。きれいな女だ。
 さらり、流れた髪の隙間から小さな耳たぶが覗く。指の間にそっと挟めばやわらかい皮膚の感触。細い肩がぴくっと揺れたら、少しだけ強気を取り戻す。

「そのばかの足の小指の爪になりたいつったのは、どこの誰…」
「さあね」

 素直な肯定など、返ってこないのは分かっていた。つれない言葉で眼を反らす女の顎を掴んで、無理矢理視線を合わせる。強引な動作に微かな不安を隠して、真っすぐ見下ろせばなぜか鼻の奥がつん、とする。決して甘い言葉を吐かない彼女の、最大級の睦言。

 ――足の小指の爪。

 なんか俺、泣きそうだ。目の前のこいつのことが欲しくて、全部欲しくて、静かに俺を見上げるその瞳を自分でいっぱいにしたくなる。愛おしさと欲望が、ないまぜになってせり上がって。欲しい、欲しい、欲しい。
 いまにも口から欲望がこぼれ落ちそうになって、ぎり、奥歯を噛み締めたら、優しい指先がそっと俺の頬を撫でた。

「……っ!」
「…いいよ」

 爪の先で顔の輪郭を軽く引っ掻けば、くちびるが薄くひらいて誘いかける。吸い寄せられるようにくちびる重ねて、隙間を塞ぐ。粘膜から熱が伝わる、絡む舌と一緒に温かい感情が心を絡めとる。
 それだけで。

「シカマル…」

 呼ばれた名前が、鼓膜を撫でる。そっと重なりあえば胸がふるえる。見上げる視線が愛おしげに歪むのを見てしまえば、抑えなんて効かなくなる。
 欲望だとかなんだとか、そういうものとは別の次元で、繋がりたかった、交わりたかった、心も身体も溶け合いたかった。彼女もおなじように思っていると、肌で確かめたかった。

「…悪ぃ」
「なにが」
「がつがつしてて」

 返事の代わりに髪を撫でられたら、もうダメだと思った。次の瞬間には乱暴に首筋へ歯を立てていた。





 腹が減ったと、目覚めた途端思う。太陽が高い。久しぶりに彼女に会えて、晩飯を食う間も惜しんで重なって、何度もなんどもなんども。
 そのまま泥のように寝て、目覚めたら昼だったのだから当たり前だ。
 腹が減った。でもこんなときのからっぽな感じは悪くない。からっぽはいつも気持ちがいいのだ。余計なものがなにもない。その軽さが一層心地いい。
 からっぽになった腹と一緒に、胸に痞えていた塊もきれいに消え去って。文字通りからっぽ。隣では彼女が静かな寝息を立てている。

「女ってのはいいモンだ…か」

 彼女の寝顔を見ながら思い出したのは、なぜか親父の口癖で。オメェにもいつか分かる日が来んだろ、って言葉がすこしわかった気がした。やわらかい腕が俺を包んで、少しだけ憔悴した顔はやさしくゆるんでいる。
 包まれているのだ、と思った。女は海だとか言ってたのは、何処の誰だか思い出せないけれど、その通りだと思った。

「いいモン…だよな」
「ん……シ、カ……」
「わり。起こしたか」

 何も言わず彼女はまた寝息を立てている。やわらかい笑顔で。閉じた瞼の端に口づけたら、細い腕が無意識で首筋を絡めとる。
 包まれている。
 明日死ぬかもしれない、そんな生活をしていると生きるか死ぬかの問題よりも、隣の女の微かな笑顔のほうがずっと大切なものに思えるもの。この笑顔さえ守れたら。

「だからずっと離れられない」

 女はいいモンだっつうのは、そういうことなのかもな――ひとりごちてまた、まどろみに堕ちた。



宇宙ならここに

宇宙をただ一人の者に縮め、ただ一人の者を神にまで広げること。 それが恋愛である。
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