ごめんねはいわせない

 自分でも調子が良すぎだということは分かっていた。勝手な理由でシカマルの元を飛び出して数ヶ月、ただの一度も連絡をとっていない。なのに、久しぶりに木の葉の地へ足を踏み入れたら不意に彼の存在が脳裏をよぎって。一度頭に浮かんだら居ても立ってもいられなくなった。


「止めてもどうせ聞かねえんだろ」
「ん…ごめんね」
「まあ、お前の思うようにすりゃあいいんじゃねえの」
「ありがとう」

 たったそれだけの会話で数ヶ月、よくも恋人を放置できたものだと今になれば思う。別れ際の台詞が先程からぐるぐると回っていた。気付かぬ内に予想よりずっと弱っていたのか、彼の声独特の柔らかい響きに囚われて、ほかのことなど一切考えられない。まるで急に鼓膜の奥が膿んだように、それだけを求めている。馬鹿みたいに。
 他の誰でもなくシカマルの声が聞きたい。シカマルの声だけが聞きたくて堪らない。感情的ではないのに、優しく掠れた声。あの声をもう一度聞けたなら一瞬先に世界が終わってもいい。それくらい焦がれている――そう自覚したときにはもう、走りだしていた。

 ――シカマル、シカマル、シカ…

 調子が良すぎると分かっているけれど、分かることと受け入れることはまったくの別物なのだと思う。息を切らし、すべてを棚上げにして、走る。走っている。アテもないのに。彼がいま里にいるのかすら分からないのに。

 ――お前の好きにすりゃあいいんじゃねえの…

 突き放すのでも投げやりな訳でもない別れ際の台詞は、今の自分の行動にも理由を与えてくれる気がした。


 走りはじめて数十秒、すこし猫背の後ろ姿が目の前に現れた。調子が良すぎる上に、出来過ぎている。まるで夢を見ているようだ。だけど現実はときどきこうやって、びっくりするような偶然で私たちを弄ぶことがある。
 たぶんすべては神様の思い通りなのだ。だから抵抗なんてしないで、いま自分からあふれるものに黙って身を委ねればいい。これまでずっとそうして来たように。
 とりあえず高く結い上げられた髪の下、きれいなうなじが手の届く距離。艶やかな黒髪と対比をなす色素の薄い肌。彼の生き様をそのまま形にしたようなすうっと伸びた首すじを見てしまったら、無視なんて出来るはずがなかった。




 あいつ、どこかでちゃんと元気にしてんのかな。里外任務の帰りに大門を潜るたび、見送ったあの日のことが頭に浮かぶ。どういうつもりで出ていったのか、いつ戻るのか、風に流されるように気ままで自由な彼女のことだから、もしかしたら戻るときは既に結婚して子供の一人も連れているかもしれない。
 でも。どこかでずっと待っていた。アテもない、便りもないのに、根拠なく信じたかったのは、俺がそれくらい彼女に惚れているからだろうか。

 ――ったく、女々しいっつうか何つうか。いただけねぇ…

 チッ。舌打ちしながらシカマルは自嘲をこぼす。でももし今ここに彼女が現れたなら、あの日と同じ潤んだ瞳で見上げられたなら、俺は何だって出来てしまうと思った。手を伸ばし、強引にその身を引き寄せて。唇を奪うことも、何ならその場で押し倒すことも。
 そんなよこしまな想像が脳裡を掠めた直後、ゆるやかな風が首筋を撫でて。後ろから突然、羽交い締めにされていた。





「シカマルっ!」
「…っおわ!?んだよ」

 飛びついた背中の向こうから、懐かしい声が私を包み込む。会わずにいた期間なんてまったく感じさせない、今朝わかれたばかりのような当たり前の口調が耳に届く。それだけで、抱き着いたことを許された気がした。飛び出したことも、放置していたことも。
 夕陽を受けて二人の影は地面に長く伸びている。身長差がまたすこし開いただろうか。

「で?」
「で、って…なに」

 声音はあの頃よりほんのわずかに低い。勢い任せに背中にしがみ付いたまでは良かったけれど、喋る言葉なんてこれっぽっちも浮かんでこなくて。ただ回した腕に力を込める。またすこし身体がしなやかに成長している。腕が読み取る情報で、会わずにいた時間の長さを勝手に意識させられた。

「気まぐれなお嬢さんは、今までどこをウロウロしてたんだっつってんの」
「………い、色々…かな」

 くつくつと咽喉の奥で笑う音。かすかなその破裂音がやっぱり大好きだと思った。カタチ良い肩甲骨が頬に鈍い圧を伝えている。暑さ故、脱いで脇に抱えたベストからは微かに血と汗の匂い。
 彼は忍なのだ、突然当たり前の事実がぐらぐらと私の足元を揺さぶり始める。過酷な状況へ否応なしに飛び込まざるを得ない、そんな彼がいま此処にいる。いつ命が尽きるかも分からない、死に寄り添う位置で生きているシカマル。もしかしたら二度と会えなくなっていたかも知れない彼がここに、私の腕の中にいる。こうして触れ合っていることが奇跡のように思えて、瞼の奥がじくじくと鈍く痛んだ。

「色々な。へえー…」
「……ん」
「随分都合のいい言葉っスよね」

 まったくその通りなので反論も出来ず背中に顔を押し付ける。嗅ぎ慣れたシカマルの匂いが鼻の奥から抜けて、頭の後ろの方をずんと刺激した。立ち去るこの背を見送りながら何度もなんども切なくなった記憶が、鮮やかにフラッシュバックする。
 久しぶりに聞いた微妙な敬語がやっぱり好きで堪らなかった。乱暴な言葉が耳の奥に滑り落ちて、じんわりと体中に染みてゆく。変わらないトーンで名前を呼ばれたら、膿を持ったように疼いていた鼓膜は一瞬で溶けた。

「ったく、お前は……」


 なんでこの背中を手放せると思ったんだろう。ついさっきまで忘れていられたんだろう。大好きな匂いと声に包まれれば、自分の不可解さが浮き上がる。
 私の性格に似合わぬ衝動任せの行動は、それくらい切羽詰まっていたということで。シカマルはきっと、それに全部気付いているはずだ。その証拠に、抱きついた腕を解こうともしない。されるがままに抱きしめられていてくれる。

「……ただいま」
「おかえり、お疲れさん」

 声には柔らかい笑いが混じっている。呆れたように見下ろす肩越しの瞳の奥から、おそろしくやさしいものが覗いた。

「まあ、放っといたらいつか戻ってくんだろとは思ってたけど」
「……うん」
「でも、」

 腰に回していた腕はゆっくりと解かれて、声に聞き惚れている間に手慣れた仕草で胸に包まれる。大切なものを扱うように最初はそっと。それから息も止まるくらいぎゅうっと。
 肩に顔を埋めたまま吐きだされたため息が、首筋を撫でる。腕の力は緩まない。苦しい。苦しいけれど、このまま息が止まってもいいと思った。だってシカマルの背中は、ちいさく震えていたから。

「正直……今回はマジでやべぇんじゃねえかって、覚悟した」
「………」

 苦しげな声に涙腺を刺激され、謝ることもできず胸もとに顔を擦り寄せる。なんでこの人を放っておけたんだろう。私を胸におさめた途端、余裕をなくしてしまったシカマルが愛しくて、愛おしくて。我慢していた、待ち侘びていたと言葉にされるより、ずっと胸の深くに迫る。焦がれていた、会いたかったと伝える所作と声に心臓を絞り上げられるようだった。

「お前は猫かよ」
「………ねこ…」
「ふらふら出て行ったかと思えば気まぐれに帰って来やがって」

 ったく。そう言って子猫にするように髪をくしゃりと撫でられる。細く眇めた真っ黒な瞳が私を見つめてやわらかな弧を描く。そんな顔を見せられたら、自分もまた焦がれていたのだと気付いてしまう。再びくしゃりと髪を乱す温かい指先の感触に、涙腺の堰は切れた。

「……ごめ」
「泣くなっつうの」

 いっそ猫のように、理性を持たない獣のように、このまま此処で貪りたい。シカマルのその指ですぐにでも私を乱してくれたなら。髪を梳き耳たぶを撫で下ろす手の平に、尖った知覚が搦め捕られる。
 一度意識してしまえばもう駄目だ。指先がちいさく動くたび触れた皮膚から体温が染み込んで、お腹の底に潜んでいた愛おしさが引き出される。湧き出る感情の処理が間に合わず、ちぎれた理性は勝手に涙腺を崩壊させる。泣くなと言われれば逆にそれが呼び水になって、もうどうしようもない。ぐしゃぐしゃになる。

「ごめ…な、さ…」
「しーっ!」

 そっと唇に指を立てられて上目遣いに見上げれば、にやりと薄い口の端が持ち上がる。次の瞬間には無造作に抱え上げられて、吐息がかかるほどの至近距離。記憶の中よりももっともっと鮮やかな表情に、心ごと全部奪われた。



ごめんねはいわせない

謝罪の言葉よりもっと欲しいモンがあるんスけど。
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