しのぶれど、

 退屈だと呟いてみたら彼の顔が予想以上に歪んだあの日、彼の姿には特別な何かが宿っていることを思い知った。すくなくとも私にとって。
 シカマルが苦しげな表情を見せてくれるたび、馬鹿な私はまた自惚れる。自分にはまだ彼からこんな顔を引き出すだけの力があるのだと、うっかり調子にのってしまう。
 思い詰めた彼の顔は本当にきれいだ。眉間の皺を深くして苦しげに張り詰めた顔。

「じゃあ あれって、」
「うん。わざと」
「………ひで」
「ごめんね」

 険しい表情がふっ、とやわらかくゆるむのといっしょに唇がかすかに意地悪く歪む。反撃を目論む口端がきゅうっと持ち上がる。その瞬間はもっときれい。
 こんなことを考えている自分はつくづく悪趣味だと思う。でも人間の本性とか素って、切羽詰まったり本気で怒っているときにこそやっと見えるものじゃないかな。だから彼を追い詰めて追い詰めて虐めたくなる。ぎりぎりまで切迫させてみたくなる。そうやって垣間見えるシカマルの姿は、いつも私の期待を裏切らないから。

 数日前のそのシーンを思い出しながら緩みそうな口元を引き締める。時間を確認しようと持ち上げた左手首で彼に貰ったバングルが揺れた。



 背中に太陽の熱を感じながら地下へ続く階段を降りる。ヒールの音がだんだん薄暗くなる視界でぼやけて響いている。一段、一段、下るたびに頭のなかはひとつのことでいっぱいになってゆく。もうすぐ訪れる、その一瞬のことだけを考える。

 古びたその建物はいつでも独特の匂いが漂っている。夥しい数のポスターやフライヤーに映写室のフィルムがやける匂い、カウンターで売られているパンフレットやコーヒーの香りが混じりあった、どこか懐かしい匂い。その匂いがすき。もうすぐ訪れる一瞬を楽しむために相応しい匂い。

 階段の下までおりきったところで振り返って外を見上げれば、トリミングされた四角い空がみえる。薄暗い地下とは別世界の、まるで作り物みたいな青空。
 見る度に映画のようだ、と思う。映画館にきて映画以外のものを映画的だと思っている自分がおかしくなる。
 完成間近の映画のワンシーン。その中に風景のひとつみたいにやがて現れる存在を、私はずっと待っている。ずっと。ずっと。シカマルを、シカマルだけを待っていた。


「お前、あんま俺のこと聞かねえのな」
「そう かな」
「興味とか ねえの?」
「………」

 待っているといつも、同じ会話を思い出す。付き合いはじめた頃のぎこちなさもいまではすっかり消えてしまったけれど、あの時の彼だけはずっと覚えている。

「言いたくねえなら別にいいけど」
「………ん」

 正確にいえば、それはちがう。あの頃もいまも。興味はある。彼を知りたいから一緒にいる。

「その方が俺もラクだし」
「シカマル…」
「ん?」

 首を傾げて私をのぞきこむ視線がひどくやわらかかったことも覚えている。

「これまでシカに近寄って来た子たちはそんなに?」
「ああ。根掘り葉掘り、な」
「………」
「めんどくせぇっつうの」

 根掘り葉掘り、と心底面倒臭そうに吐き出す彼の声も覚えている。
 あのときの自分が思っていたことも。
 言葉になんの意味があるんだろう。そうやって個人データを集めることで、シカマルのなにが分かるの。意図的に紡がれる情報の羅列にほんとうの意味なんてあるのかな。
 俺はこういう人間です、こういう物が好きでこういう物がきらい。朝は何時に起きていつも何を飲んで家ではこんな動物を飼っています。尊敬する人は誰で趣味はこんなこと。寝る前にこういうことするのが癖です。
 シカマルのフィルターで検閲を受けたシカマルの情報。
 それを聞いたら私の中のシカマルの印象は変わるんだろうか。たぶん変わらない。きっと何も変わらないし分からない。シカマルはシカマル。

「たぶんね、音楽みたいなもの」
「……は?」
「耳に心地のいい音楽とか、おいしい料理とか。それと同じ」

 私がそう言うとシカマルは黙ったままふっ、と表情を崩したから、伝わったのだと思った。なにも問い返さない彼をまたすこし好きになった。
 醒めているとかそういうことではなくて、もっと単純で簡単なことなのだ。本質は言葉なんかで変わらない、と思っているだけ。バックグラウンドやタイトルを知っていても知らなくても好きな音は好きだし、おいしいものは美味しい。それと同じで、ただそれだけ。

 彼の劣等感には気付いているけれど、気付かないふりをする。だいたい劣等感を抱く理由がわからない。待ち合わせには必ず私のほうが先にきて待っている、つまりそういうことだ。待つ意味に、はやく気づけばいい。いっそずっと気付かなければいい。

 もうすぐトリミングされた四角のなかに彼が現れる。太陽と青空をバックに立つ猫背の黒髪、形の良い耳たぶで光るピアス。すぐに消えてしまう言語情報より、私には目に映るもののほうがずっと意味がある。見ていたいと思う自分のなかの気持ちのほうがずっと大事。

 それを、毎回確認する。
 待ち合わせまであと一分。もうすぐ彼が来る。
 何度も会っているのに毎回はじめて見る男のようにみえる。四角い空に黒髪の彼。たった一瞬の映画みたいなそのシーンを味わうため、わたしはいつも早めに来て階下で待つ。
 いくら個人データを収集するよりもその一瞬の彼に、彼が詰まっている。何気ない仕草や、すぐに消えてしまう表情に、彼が詰まっている。そう、思う。

 早く、はやく。まだ…――

 待ちはじめて10分もすれば、もどかしさが迫り上がる。完璧なワンシーンを見たくて、勝手に焦れはじめている。無意識に覗いた腕時計の隣で、またバングルが揺れた。
 時計にふれるたびカチャ、としずかな音をたてゆらりゆらりと光りながら一瞬離れては私の手首にぴったりと吸いつくそれ。シカマルに貰ったそれ。
 何度かその仕草を繰り返して、また時計をのぞきこむ。
 二分、三分。
 いつもピッタリの時間に現れる彼がこない、たった三分で私をこんな気持ちにさせる男を私はほかに知らない。知らない。知りたくない。

 真っ青な四角のなかにまだ人影はみえない。周囲より一段明るいそのフレームを見つめ続けて眼球がだんだん潤ってくる。泣いているわけではなくて、単純に照度差による網膜疲労なんだから勘違いしないでよね、と自分に向かって小理屈をこねながらまた明るい空を見つめる。
 目が疲れて映画どころじゃなくなったらどうしてくれるのシカマルのバカ。早く来い。バカ。バーカ。シカマル…――

 四分を過ぎたころだんだん不安になってきた。事故にでも遭ってるんじゃないだろうか、遅れるって連絡一本すら入れられないような不測の事態に巻き込まれているんじゃないだろうか。上映開始時間まではまだ充分に余裕があるのに、このじれったさは何だろう。

 もう映画なんて観れなくてもいいから、彼の姿が見られればそれでいい。それだけでいい。
 そう思い始めたころやっと階上に足音が響いて、私はそっと歪んだ顔をあげた。トリミングされた四角のなかに黒髪をゆらして、完璧な彼が、いた。
 猫背の彼が十数段の階段を一歩一歩下りてくる前に、整えなくちゃ気持ちを。整えなくちゃ顔を。声を。


「わり、遅れた」
「………」
「……退屈 させた?」



「……………ペナル ティ、」

 何度も深呼吸して出した声はやっぱりみっともないくらいふるえていて、彼の表情を観察する余裕なんてなかった。


しのぶれど、
彼女のその表情をみるために遅れてきたんだ、ってのは内緒。
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2011.08.03
ゆびきりげんまん のふたり

遅れたくせにスタバで彼女お気に入りのコーヒー買っててくれたりするんだよきっとあの男は。
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