あばかれる

 ただいま、とドアをあければ、おかえりがかえってくる。こんなありふれた関係をしあわせに思えるのはこいつが相手だから。そんな歯の浮きそうなことをゲンマは改めて思った。
 奈良のリア充っぷりに
 あてられたかな――






 後輩にばかみたいにあてられている。そう思いつつ口元をゆるめたら「ずいぶんご機嫌だね」と彼女が笑った。

「そうか?」
「そうじゃないの?」

 脱いだジャケットを受け取りながら、疑問に疑問でかえす彼女の顔は、俺のことなんて全部見通しているようにやわらかい。

「そう、かもな」
「今夜もいいお酒だったようで なによりです」

 もう少し飲む?それともお茶?問いかけながら冷蔵庫にむかう背中を見つめる。風呂あがりの濡れた髪がほそいうなじに張りついて、飾り気のない格好だからこそ彼女の内側が透けてみえる気がした。
 返答のない俺を窺うように、半分だけ振り返った瞳と目があった瞬間。やっぱりこいつが好きだ、と思った。まあ、俺がわざわざそれを口にすることはないのだけれど。

「もう少し付き合いますか」

 ビールを手にとりながら勝手にそう決めるとグラス二つとともに彼女は俺の真向かいに腰をおろす。ちょうど、俺ももう少し飲みたいと思っていた。やっぱり彼女には見通されている。それが心地良かった。

 黙って注がれる液体をみつめる。こいつはいつも、酒を注ぐのがうまい。だから俺には滅多に注がせてくれない。お疲れさま、とグラスを持ち上げる彼女に釣られて、そっと飲み口を合わせた。

「それで、」
「ん?」
「なんで今夜はそんなにご機嫌なんですか不知火さん」

 姓で呼ばれると妙にくすぐったい。まるで結婚前のようで、あの頃のことを思い出す。
 仕事柄海外への出張や長期滞在も多い彼女とは、なかなか会う機会がなくて。俺にしてはめずらしく、もどかしい想いをした。それまでの恋では常に待たせる側だった俺が、気がつけば待っていた。待つ、待ちたい、という感情には馴染みがなくて。だけど、待ちたいと思っていた。それを自覚したときにはもう、恋だった。
 待って、あせって、追いかけて。簡単には靡かないのに、拒みもしない彼女に焦れて。かと思えば、すんなりと距離を詰めてくる彼女に慌てて。少しでも彼女のために時間を捻りだそうと無理をした。理解したくて必死になった。まるで、いまの奈良たちのように。

 あのもどかしさも、今となってはいい思い出だけど。
 それがあったからこそ、めずらしく頑張ったりもしたし、早く一緒に暮らそうとこのカタチをとることを自然に選んでいた。必然だと思った。結婚なんて、自分には縁のない遠いことのように感じていた男の思考を、やすやすと覆させた女。
 回想に浸っているゲンマの耳に、澄んだ声がしのびこむ。

「口元ゆるんでますよ、不知火さん」

 やわらかな、体温のある声。
 媚びのない響きの奥に、ちゃんとあたたかいものがある。この声にもやられたんだった、と思い出す。

「話したくなったら話して」

 言いながら、空になった俺のグラスにビールを注ぐしなやかな指先。すう、と視線をずらせば、ゆるやかな弧をえがくくちびるが見えた。

「ああ。奈良のやつが、な」
「また奈良くん?」

 ゲンマ、ほんとにあの子のこと好きだよね。と続ける彼女に肩を竦める。

「からかいがい、あるからな」
「そう」

 いまの奈良をみていたら、あの頃の自分をなんとなく連想させられる、とは口が裂けても言わない。もっとも俺の場合はもう少し他人に気付かれない振る舞いをできていたと思うけど。アオバは例外として。

「真面目な顔して俺なんかにあんなこと聞きゃあ、どうぞからかって下さいって言ってるようなモンなのに」
「あんなこと、って?」
「 "ゲンマさんは奥さんの考えてることわかりますか?" だと」

 言い切ってグラスをあければ、ちょうど良いタイミングでまた注がれる。

「なるほど」
「リア充爆発しろ、」
「それで どうなんですかゲンマさんは」
「さあ、な」

 ごまかしたら、やわらかく微笑まれた。

「どっちでもいいけど」
「だろ」
「奈良くんは前を向きたいんだね」
「前?」
「彼女が大切で、前を向きたくて。だから横道にそれてる真っ最中なんだろうなあ きっと」

 まぶしいものを見るように、眇められた瞳は、ひどく優しい。

「若いっていいね」
「羨ましいのか」
「ちょっと、ね。いいなあって」
「……」
「彼女、ほんとに愛されてるんだね」

 まぶしそうな瞳のまま、彼女があまりに羨ましげに言うものだから。うっかり、口を滑らせた。


「俺じゃ足りねえ?」


 俺では足りないのか、そんなことをわざわざ問うなんて。
 これではまるで、あいつらに対抗意識を剥き出しにしているガキみたいじゃないか。あいつらに負けないくらい俺はお前がすきだ、と言っているのと変わらない。
 わき上がる羞恥を極限まで抑え込んで彼女を見つめれば、悪戯な眼差しがかえってくる。


「ごめんゲンマ、いまのは言わせた」

 してやったり、の表情。
 そんな貌にすらぐらぐらと揺さぶられるなんて。俺らしくない。ぜんぜん俺らしくないけど、そういう彼女だからきっと 俺は…――


「お前のそういうとこ、」
「嫌い?」
「いや、嫌い じゃない」

 たぶんいつもより少し不機嫌な顔の俺を、彼女はやわらかくみあげる。こうして調子を狂わされるのも、彼女だから。振り回されて嬉しいと思えるのも、彼女だから。
 頬が地味に熱い気がするのは、きっと飲み過ぎた酒のせい。
 そう。酒のせい。
 ぐっ、と眉間に力を入れれば「足りてるよ」と彼女の声。

「ゲンマだけで充分」

 甘さなんて欠片もないのに、俺にとってはなによりも甘い。そんな涼やかな声が、しずかな空間を満たした。



 やっぱりこいつには敵わない。
 そう思わされてしまった、ある夜。


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2012.07.04
series透明な軌跡のひとこま。
不知火さんとこの彼女は 某海外ブランドの日本本社で店舗デザインに携わっていて、彼の担当物件にテナントが入ることになり初打合せ=初対面。とかいう裏設定。どっかでまた使う!
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