渦の先

 すみ渡る青空にぱっきりと白い雲。文字通りうだるような暑さに、アオバの首筋を汗が伝う。ざわめく雑踏のなか、頬をなでる風はぬるい。
 いまでもこのスクランブル交差点を渡るたびに思い出す。
 あの、夏の一瞬。

 脳裏に刻まれた、はじまりの足音――






 打ち合わせの帰り道。交差点を渡りきった所で、先方に忘れ物をしたことに気がついてアオバはほんのひととき立ち尽くした。

 ――戻る、か。

 うっかり抜けてしまった自分にうんざりしながら汗でずれた眼鏡を指先で押しあげていると、背中から軽快なヒールの音が近づいてくる。夏の暑さを和らげてくれるような音だな、と思った瞬間。もっと涼感ゆたかな声がひびいて、つい振り返った。

「ごめん、待った?」

 まさか、俺にかけられた声だと思うほど、バカではない。だって こんな声、俺は知らない。こんな声、もし一度でも聞いたらきっと忘れないから。

 すぐそばに、見知らぬ女が立っていた。肩先がふれ合いそうに近く。
 ふんわりと漂う女性にしては爽やかな香水。仕事中らしいタイトなスーツと、走ってきたくせに少しも汗ばんでいない白肌。ただ、吐息だけがわずかに乱れていた。

 自慢じゃないけど、記憶力だけは悪くない自信があるんだ。たぶん彼女とは一度も会ったことなんてないと思う。
 なのに彼女の瞳はまっすぐに俺を見上げている。吸い込まれそうな眼。人違いでした、と謝るでもなく、ひたすらに、まっすぐ、俺を。

「はい?」とちいさくこぼしたら、あの声がもう一度「ごめんね」といった。

 いままでの取引先の受付嬢だとか、学生時代の同期生だとか、ずいぶん過去のうすぼんやりした記憶までフルで引きずりだしてみたけれど、やっぱりどこにも彼女は見当たらない。見つけたらたぶん、黙って放ってはおけないと思った。それくらい、彼女は俺の理想のど真ん中、っていうの?俺がそんなこと思うのもめずらしいけど。
 そう思ったあとで、いまゲンマがここにいなくて良かった、と安堵した。こういうことに目敏いあいつは、きっと俺の動揺をあっさり見抜くから。

 太陽の光に透けそうな肌と、なめらかな長い髪。さかしげに秀でた額の下、ぱっちりと大きな瞳は縋るように俺の眼鏡のおくを刺している。

 え?なんでこの子俺のこと見てんだろ、どうして俺に声かけんの。もしかして新手のナンパとか。
 失礼なことを考えながら言葉を探していたら、招くように彼女のてのひらが揺れて。一緒に彼女のつけているブレスレットも揺れる。細い手首でゆらゆらと、ゆめみたいに。
 きらきら揺れうごく光に釣られて、反射的に身を屈めた。

「すみません、今ちょっと後を尾けられているみたいなんです」
「……」
「すこしだけ友人の振りをしていただけませんか、」

 お願いします。小声でそう続ける彼女の声があまりに切羽詰まっていたから、疑いなんてすぐに消えた。彼女みたいな子からの逆ナンなら大歓迎だけどね。

 肯定の意思表示のかわりに、咄嗟にてのひらを掴んで。その場から離れながら、ぐるぐると思考は巡る。
 どうして俺はこんな強引なことをしてるんだろう。彼女は友達の振りをって言ってたのに、これではちょっとやりすぎだ と思ったけれど、てのひら同士があまりにしっくり馴染むのでほどく気になれない。
 俺よりたぶん1.5℃くらい。ひんやりと低い体温が、指先にひかえめに絡みつく。

 そっと隣を見下ろせば、彼女はほんのすこし困った顔ではにかんでいる。
 可愛い女の子の困っている顔っていいよね。なんか、こう、グっとくる。

「巻き込んじゃってすみません」
「別にいいよ」
「でも、お仕事中じゃ」
「君もだろ」

 見知らぬ女の子とのとりとめもない会話が楽しいなんて、合コンに誘われても誘われても面倒で断り続けている俺にしてみれば充分異常なことだけど、本当に楽しいのだから仕方ない。
 このまま仕事をサボって、のんびり公園デートってのもいいかもな。なんて思った。先方への忘れものなんて、このまま忘れてしまえばいい。いまは彼女の方が大事。

 歩き続けて十数分後。
 タイミングを見計らうように「もう大丈夫です、ありがとう」と口をひらく彼女に、ゆるく口角を釣り上げる。


「お礼はディナーでよろしく」
「え」
「今晩、食事でも付き合って」
「あの…」

 ああ、もしかして俺。
 さっきまで彼女を尾行してたヤツよりずっと性質(たち)が悪いのかも。
 でも、ごめん。このままここでバイバイなんて、とても出来そうもないんだ。

「それくらい期待していいよね」


 唐突に前触れもなく俺を巻き込んだんだから、今度は君が巻き込まれればいいよ。



困惑に歪む顔をもっと歪めてみたい、なんて思ってしまったのは きっと そういうこと。

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2012.07.05
お誕生日の某嬢へひそかに捧ぐ
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