出来損ないのシャングリラ

 午後の教室では、やけにたいくつな授業が続いている。

「面積が同じであるのに、二つの図形の周長は異なっており、後者は前者の二倍の周長をもつ。その帰結はあまりに……」とかなんとか単純な図形を二つ並べて、まったく興味のもてない理論を展開する教師の声が間抜けに聞こえる。こんなことを知ったからと言って将来なんの役にたつのだろうと思っていたら、もっとばかばかしい楕円の周長の積分云々へと話題が移ったので聴覚を強制的にシャットダウンした。

 自分の世界に入るつもりで、その前に教室をぐるり、見渡す。誰もかも一様に退屈な顔つきをさらすなか、一人だけ違う表情をみつけた。見つけてしまった。
 奈良くんだ。
 と言っても、成績優秀者の常連らしく真面目に教師や黒板へ視線を注いでいる訳ではない。真剣にも無心にもみえるその眼差しは、この空間とはぜんぜん別の場所へ注がれている。
 まあるくて尖っていて複雑な顔。
 あんな表情を見せられてしまったら、自分の世界に入るのなんてどうでもよくなる。だいたい私が「自分の世界に入る」ってのは教科書に挟んでこっそり薄い本を読むとか、脳内で展開する妄想のなかに身をひたすとか、その程度のささやかな秘め事で、べつに今に限定されることではないから。むしろ、たったいま目の前に興味をそそる表情をさらしてくれている少年の内側を探るほうが、よほど秘め事らしくて面白い。
 いまこの瞬間しかできないこと。

 ――なに、見てるんだろう。

 そう思った途端に、彼の鋭い目がかすかにやわらかくなる。そんな表情をさせるなにかが、なんなのか知りたくて、奈良くんの視線の先を辿ってみたら絶景が見えた。
 肘をついて窓の外を眺める奈良くんの向こうには、胸をえぐられそうなくらい印象的な空。
 その美しさに一瞬で目が離せなくなる。

 適度に削ぎおとされた奈良くんの頬のラインが逆光でじんわりと滲んで、その後ろにたとえようのないきれいな空があって、輪郭を縁取るように淡い光がさす。黒い髪も、白い肌も、すべてが日常からかけはなれて。
 なんというか、後光が見えるよ。
 まるで、アルミの窓枠をフレームにした絵みたいだ、と思った。有名画伯が生涯の情熱を一心に注いでやっと描きあげられるかあげられないか、それくらいハイクオリティの絵画。
 シャットダウンしたはずの音が、もっと遠くへ遠ざかる。教室に、私と奈良くんしか存在しないような気分になる。
 私と、奈良くんと、空。
 奈良くん越しの空がきれいで、きれいで、吸い込まれそうな色って、もしもきちんと色彩で表現できるとしたら、きっとあれだと思った。

「おーい、そこのお嬢さん。俺の話聞いてくれてる?」
「……」

 なにも聞こえなかった。五感すべてが視覚になったように、目に映るものに奪われた。この光景を焼き付けようと、ものすごく集中して、息がとまるくらい。だって、一瞬たりと同じまま留まってはくれないのだ。空も、奈良くんも。帰ったら「空と奈良くん」ってタイトルで作文がかけそうな気がした。原稿用紙38枚くらい。

 こめかみが痛くなるほど集中して、集中して、こんなに何かに必死になったことなんて未だかつてないくらい集中して、集中していたら、

「おい!」

 耳障りな声とともに、教科書の角でこつん、頭を叩かれた。
 ふっ、は!肺に滞留していた空気が、反動で一気にこぼれ出す。足りなくなった酸素を補おうと力任せに呼吸したら盛大にむせた。

「なにするの」
「それはこっちの台詞だ」
「え、」
「聞いてんのか」

 すぐ隣から先生の声が聞こえて、やっと今が授業中だったと思い出す。聞いてませんでした。というか、聞こえませんでした。

 教卓へ戻ってゆく先生の背中へ申し訳程度に視線を動かして、またすぐ外を見る。顔半分だけ振り返った奈良くんと目があった。
 目があって、くちびるの端だけで笑みを交わす。それが嬉しくて、くすぐったくて、心臓がいつもの場所へ大人しくおさまってくれない。どくどくと脈打ちながら指先に移動したり頭のてっぺんにのぼったり耳の奥で啼いてみたり、体のなかでひそやかに暴れまくっていて、どうしようもないから、わざとらしく椅子を鳴らして立ち上がる。

「先生!」
「なんだ、質問か」 
「いますごく雲の切れ間の空の色がきれいで、いまだけしか見られない史上最高の絶景なのでサボります」
「はぁ?」
「私の未来にとって、きょうのたった今この瞬間に心に焼き付く空の記憶はきっとものすごく重要な意味を持つと思うんです。大事なんです(きっと先生の退屈きわまりない授業の何百倍も。)だから止めないでください先生」

 言うだけ言って、返事も聞かずにばたばたと教室を飛び出したら 「俺も」 って、やけに嬉しそうな奈良くんの声が追いかけてきたから、たぶん私のめちゃくちゃな理論は間違っていない。と思うし、括弧書きのなかを口に出さなかった英断をむしろ褒めてください。


出来損ないのシャングリラ
(そもそもそこに奈良くんがいなければ絶景は完成しないんですけどね)
(…つか、脳内会話だだもれなんすけど)
(まじか!?)


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2012.08.04
きっと奈良くんは喉の奥だけで笑ってる
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