寝た子を起こす
「昼間、見てたろ」
「見えたの」
多少の後ろめたさを押し隠してゲンマがそう問えば、彼女からかえってきたのは素っ気ない言葉だけ。
「それ、同じじゃねえの」
「一文字で全然意味違うでしょ」
人聞き悪いなあ、ゲンマ。なんて作業の片手間にこたえながら、彼女はことことと音をたてる鍋をのぞき込んでいる。
今夜はカレーらしい。香辛料のほどよく効いた濃厚な匂いが部屋じゅうに広がっている。スパイスから連想される尖ったまろやかさが、なんとなく、彼女の芯のつよさそのものに思えた。
「もうちょっとかかるから、先にお風呂入ってきたら?」
「……ああ」
みじかく答えたまま、その場に立ち尽くす。本当は、もうすこしなにか反応があるんじゃないかと思っていた。ほんのかすかにでも歪む表情が見られるんじゃないかと思っていた。
お前じゃない女と、二人きりで、
俺は――
なのに、あっさりと期待を裏切られている。今夜も。
「まだなにか?」
「いや」
でも仕方ない。
もともと彼女はそういう女だ。べたべたと纏わり付くことも、みにくく嫉妬することも、俺を縛ることもしない。だから逆に逃げたくなくなる。逃げられなくなっている。
人間っつうのはまったく皮肉な生き物だよなァ。
「別に気にしてないから心配しないで」
「あー…、そ」
付け加えられるのは、予想どおりの台詞。そう。こいつがそう言うのならそれは強がりでも何でもなくて、ただの真実なのだ。彼女は本当に昼間のあの一件を気にしていない、そういうこと。
すこしばかり落胆している自分が不思議に思える。だって俺はその類いの面倒臭さを心底嫌悪しているはずじゃないか。有り難いと思うことはあっても、がっかりするなんておかしな話だ。
けれど、彼女が相手になるととたんに調子が狂ってしまう。百戦錬磨の女誑しも形無し。
ったく、何なんだろうなこの天の邪鬼な感じ。妬いて欲しかった、のか?俺は。バカバカしい。いまさらなんでそんな青臭いガキみてぇなモン欲しがってんだか。
彼女から見えないところで肩を竦めると、くくっ、と自嘲をもらす。
「あれ、残念なの?」
「バーカ」
上手に隠したはずなのに、こいつにはすっかりばれているらしい。それが悔しくもあり、快くもあるのは自分の審美眼にあらためて根拠をもらった気がするからかもしれない。
「でも、ね」
「あ?」
「信じるってそんなものでしょ」
「んだよ、それ」
「この人になら騙されても裏切られてもいいって思えること」
別にゲンマに騙されたと思ってる訳じゃないけどね。そう言葉を続けながら彼女はまっすぐに俺をみあげてふわっと笑う。
言葉の持つ意味合いの強さと表情のやわらかさはあまりにもアンバランスで、そのギャップにゆさぶられる。一瞬だけ俺をとらえた視線は、またすぐに離された。
「どうせ何か訳ありなんでしょ」
「まあ、な」
だからこいつには敵わない。
ただ素っ気ない訳でもない、つめたい訳でもない、ましてや俺に興味がない訳でもない。ちゃんと理解され、愛されているのだと今日もまた思い知らされる。
「風呂、入ってくるわ」
くすぐったい感覚につつまれて部屋を出た俺の背中に「ごゆっくり」とやわらかい声が届いた。
風呂上がりの濡れた髪を適当に拭き終わると、自宅専用の眼鏡をかける。相変わらずリビングからは良い香りが漂っていた。
ちょうど席につくタイミングでほどよく冷えたビールがグラスに注がれる。いっしょに出てきたのは軽めの肴。
彼女は本当に、俺のペースやバイオリズムをよくわかっている。押し付けがましくもなく、かと言って従順な訳でもない。あくまでも自然で、心地好い。
「カレー、もうちょっと後にするね」
そう言って目の前に腰をおろすと自分のグラスを差し出す彼女に、そっとビールを注ぐ。
「また…眼鏡」
「家ではいつもこれだろ」
「そう、なんだけど」
何度見ても慣れないんだよね。独り言みたいな声が続く。知っている。彼女が俺のこの姿に弱いことを。知っているから、わざとレンズ越しに視線をよこす。
彼女の眉根がかすかに寄せられて眩しいものを見るときのようにまるい瞳が細くなる。でも、なにかにすがりつくような頼りない視線は絶対に反らされない。目を反らしたら負ける、とでも言うように、いまにもほどけて溶けそうな目が見つめている。まっすぐに、俺を。
「惚れ直した?」
「さあね、内緒」
本当は、俺が見たかっただけ。彼女のその表情を見たかった。間近で見せられたら勝手にむねがざわつくだけだと知っていたのに見たかった。
「バレバレ」
なにも答えずにほほ笑む彼女と無言でグラスを合わせた。
「まったく。そのレンズの向こうでいったいどれ位の隠しごとをしてらっしゃるんですか、不知火ゲンマさん」
冗談めかした口調でインタビュワーのまねごとをすると、彼女は裏のない笑みを浮かべる。ほどけそうだった目がほんのすこしだけ形を取り戻す。それが悔しい。
そもそも簡単に底の知れちまう浅い男になんてまったく興味ねぇくせに、何言ってんだか。こいつは。
「さあな」
「ほんとテキトー」
「そこがいい所だろ?」
「まあね」
さめた台詞同士の会話はいつもどおり心地好くて、レンズ越しに目を合わせたまま口元が緩んだ。ほんとうは、むねの内側がじりじりと熱をおびていた。
「ところでお嬢さん。俺からも一つ質問よろしいですか」
「なに」
「嫉妬、マジでしたことねぇの?」
「ない」
「即答かよ」
「無意味だからね」
だんだんといつものしずかさを取り戻す瞳が口惜しい。俺の前でそっとグラスに口づけるなめらかな動きが口惜しい。もっと動揺して不自然に乱れればいいのに。ぎくしゃくと。
ほどけて、くずれて、なにかがほとばしり出るようなあの視線をもう一度見たかった。いますぐに。そんな風に分かりやすい感情を示す自分自身を持て余す。
「ったく」
だから、見つめた。
レンズ越しに、熱を込めて。
「信じてますから」
「そうかよ」
ゲンマになら裏切られても騙されても構わないと思えるくらい信じてるから、なんて、どんな究極の愛の言葉だよそれは。
言葉では足りなくて、見つめる。ざわつく俺の目の前で彼女の瞳がゆれる。歪む。感情が俺のほうへ流れてくる。ひとときも待てない気持ちになる。
体からそわそわと心がはみ出してしまいそうで、いつもの余裕なんてものはまるで失われる。気づいたときには、唇を重ねていた。吸い寄せられた。
「カレー、いらねぇかも」
「私 も…」
そっと眼鏡をはずし、細い肩を掻きよせるように包みこむ。むねを打つ音がかさなりあう。ふれたところが互いにたわんで、ぴったりとすき間をなくす。
むかうさきは、ほら。ふたりの境界をなくす場所。
寝た子を起こすきっちり責任とってもらおうか。