個体二つのお戯れ
刺激のない現実ほどつまらないものはない。ゲンマは前に、そう言っていたよね。私もその通りだと思う。平坦すぎる毎日はつまらない、たまには刺激的なイベントもほしくなる。だからこうして協力してあげようと思ったの。ただそれだけのこと。
分かるでしょう。分からないなんて言葉は受け付けませんので、悪しからず。そんな上っ面の逃げ口上が無駄なことはゲンマ自身がいちばん良く知ってるはずだから。
それに、自分の口からでた言葉には責任をもつべきだと思うの。だってそうしなければ世の中はどうしようもなく無秩序な方向へひろがっていくばかりだし、なにより、刺激がないでしょう。
という訳で、
「今日ちょっと合コン行ってくるね」
「は?」
ただの人数合わせだし、別に行きたくもないんだけど、どうしてもって頼まれたから仕方なくて。行っていいよね?
そう、ゲンマに問えば、呆れるほどの無表情が私を見おろした。
「やけに言い訳じみてんな」
「そんなことないよ」
「にしちゃ、口数多いぞ」
「気のせいでしょ」
実際のところ、合コンというシステムにもメンバーにも興味はまったくない。1ミクロンも1ナノも惹かれない。私の興味はそれよりももっと別のところにあるのだ。
本日セッティングされた場が前からずっと行きたいと思っていた趣味のよろしい創作割烹料理の名店だと聞いて、まず、心が動いた。さらにメインの食材が旬のはしりの鱧(はも)だと聞いてしまえば断る理由がなくなる。おまけに今夜の飲食代はすべて男子持ちだというのだからなおさら言うことなしじゃないか。
何を隠そう私は鱧に滅法弱い。鱧を食べられなければひと夏が越せないと本気で思っている。あの触感と味をこんな初夏のうちから口にできるなんて、行かない手はないと思うのだ。さすがハイソサエティ男子ズ。押さえどころをよくわかってらっしゃる。
「口元ゆるんでんぞ」
「……うそ」
はい。
食べものにまんまと釣られました、食い意地張っててごめんなさい。
「いやまじで」
「ばれたか」
「ったく」
「お相手男子たちが大変に美味しい方々らしいので」
心にもないことを言って、反応をうかがう。ゲンマが止めてくれるのではないか、とか、きれいな顔を歪めるところが見られるんじゃないか、とか。まさかあり得ないんだけど。でも。ひそかに嫉妬してくれたらいいのに、という気持ちがすこしもなかったと言えば嘘になる。むしろ、いつもいつも一枚上手の彼が、たまにはちょっとくらい悔しい想いを味わえばいい、なんて不遜なことを願っていた。
「ま、いいけど」
「え」
なのに、あまりにあっさりと許されて拍子抜けする。彼のなかには嫉妬という単語がないらしい。それくらい信頼されているのか、それとも、私に愛されている自信があるのか、浮気なんてされる訳がない、と思っているのだろうか。いつもと変わらぬ強気な表情をくやしく思いながら念を押した。
「じゃあ行っていいの」
「トーゼン」
「ほんとに?」
「くどい」
なんて呆気ない。これでは刺激にもなんにもならないじゃないか。平坦な日常へ一服のスパイスをという目論みも、たまにはパワーバランスをこちらに傾けてやろうという浅はかな企みも、すっかり形無しだ。
ゲンマにとっては、自分の彼女が合コンに行くことなんて些末な事柄にすぎないのか。それはそれで少し寂しい。行きたいけど、鱧たべに。
じわりじわりと夕闇が近づく時刻。窓の外側から、夜が滲みはじめている。目論みは失敗したけれど、私を鱧が待っている。こうなったら思う存分夏の味覚を堪能してやるから別にいい。
「じゃ、行ってきます」
感情の乱れのまったく見えないゲンマに背をむけて、玄関へと進みかけたら、唐突に腕を掴まれた。
「ちょっと待て」
「なに、」
やっぱり行ってくれるな、とかなんとか、たまにはクサい台詞を吐いてくれる気になったのだろうか。まさか、ね。と思いながら、頭ひとつ上にある顔を見上げていた。ら、
え?
自信満々の表情のまま、ゲンマがすこし屈んで。端正な顔が、傾きながら、じりじりと近づいてくる。
え!え!?
これはいったい何の儀式だろう。
出掛けに行ってらっしゃいのキスなんて柄じゃないし。いままでそんなこと、したこともない。一度も。
困惑する私に、彼が至近距離で ふっ、と笑って。その直後。
「いたっ」
首筋に、ちくりと鈍い痛みが走った…――
頬にふれる琥珀の髪がくすぐったい。
むねの奥いっぱいに、ゲンマの香り。
ぬるい息が、生え際をなでている。
そんな一つ一つが、いちいち私の心臓を掻き乱すから、鈍くつづく痛みから逃げることも出来ない。棒立ちのまま立ち尽くす。
ゲンマが思いきりうなじに吸い付いたのだ、と気づいたのは、たっぷり15秒後。かるいリップ音を残して、体温がはなれた。
「ちょっと」
「ん?」
白々しく「ん?」なんて言ってる場合じゃなくて ゲンマさん そこ、服きててもばっちり見えるところなんですけど。隠しようがないじゃない、どういうつもり。
あわてて覗きこんだ鏡のなか。案の定、首筋には見間違いようのない典型的キスマークがくっきり。消えない痣のように存在を主張している。
なんというか。ものすごく、厭らしい。
「なにしてくれてるの、」
「さあな」
「じゃなくて見えるじゃない 困る」
私の抗議には素知らぬふりで、ゲンマはつけたばかりのその痕をわざとらしく指先でなぞる。満足げに歪んだ顔が男前すぎて、文句を言う気もなくなって。さっきまであんなに楽しみだった鱧も、色褪せている。
「鱧、食べたらすぐ戻るから」
刺激を与えるつもりが逆にやられるなんて、くやしい。ちっとも振り回せない。
でも、
「ゆっくり楽しんでくれば、」
そう言って余裕綽々な顔で笑う彼に、私はたぶん一生勝てないんだろうな、と思った。
負けっぱなし。もう、それでいいや。
個体二つのお戯れ(見えないとこにも つけとく?)
俺に勝とうなんて100年早い。