つきあかり
「おやすみなさい」
ぱちん。明かりを消した薄暗い部屋、急に閉ざされた視界。闇のなかというのは、なんでこうも想像力を刺激されるんだろう。
さっきまで穏やかな顔で私を見下ろしていたハヤテは、微かに息を荒げている。
ただ単に器官が詰まっているというのが、その答えなんだろうけれど。万が一の確率で、身体に欲望を滲ませていたりするんじゃないか。なんて思える呼吸だったから、想像力は勝手にその羽根をぐいぐいひろげる。
――コホ、コホ…
ちいさな咳にまで、熱がこもって聞こえるなんて、考え過ぎだろうか。
ギシ、軋んだベッドの音。きっともうすぐハヤテの腕がこちらへ伸びて。大好きなあの声が私の名を呼ぶんだ。
暗いなかで響く、かすれた低い声がとても好き。顔がはっきり見えないぶん、聴覚が研ぎ澄まされて。ハヤテの声に滲み出るやわらかさを、いつもよりつよく感じるから。
――なまえさん…。
彼の唇が名前を象る瞬間、自分のなかの大事な部分が彼に支配されてしまう錯覚におちいる。
そうなったらもう逃げられない。もちろん、最初から逃げるつもりなんてないけど。
どくどくと勝手に暴れる胸に手を当てれば、伝わる鼓動になおさら煽られて。着衣の下で肌がさわぎはじめる。
ふっ…、彼の吐き出す息が空気をゆらした瞬間に、肩がふるえた。
「なまえさん」
ハヤテのかすれた声が耳たぶをさらりとなでる。それだけでバカみたいにドキドキしているなんて、私はどこまで彼のことが好きなんだろう。
「あの 」
「なに?」
なにげなく答えながら、てのひらはじわじわと汗ばんでいる。
「ちょっとだけ、いいですか」
許可など取らなくても、あなたのことならいつでも受け入れるのに。ちょっとなんて言わず、いくらでも。だけど、そういう遠慮深さもハヤテらしくて好きだなあ。
「どうぞ」
返事をしながら、顔がほころんで。それを隠すように唇をへの字に歪めてみる。
ちいさな衣ずれの音、持ち上げられた布団の隙間からはするすると夜気が入り込む。それをひんやり感じるのは、もしかして自分の肌がすでに火照っているからかな。恥ずかしいけど。
隣でゆっくりと彼が体勢を変える。その気配を感じれば、素直で愚かな身体は反応をみせる。じわりと内側では期待が膨らんでいる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ん…」
ギシ。またベッドが軋む。
顔の両サイドには、細いのに筋肉質な彼の腕。浴衣の袖からすんなりとつきだした白い肌。触れてもいないのに、ぞわ、首筋が泡立つ。
早く触れてほしいなんて思ってしまったら、もうダメだ。空気を介して伝わってくるハヤテの熱。ふわりと香るひなたの匂い。そんな些細な刺激に、胸がぎゅうっと締めつけられて。心臓が過敏反応をくり返す。
屈んで近づいてくるハヤテの身体。胸元から見えるうすい筋肉も、かすかに香る薬の匂いも、早くはやくと私をせかすから。
「ハヤテ…」
想いが外に飛び出すように、無意識で名前を呼んでいた。
暗闇の中で、ハヤテがやわらかく表情を崩す。
「寝てしまいそうでしたか、すみません」
寝てしまいそうと言うよりも、目が冴えて仕方ないくらいで。そんな顔して微笑むより、早くそのつめたく冷えた指先で私にさわってくれたらいいのに。
にこにこと私を見下ろす顔には、欲情のかけらも見えなくて。非難をふくんだ瞳で、こっそり訴えてみる。焦らしているつもりなのか、無意識なのか、ハヤテはすこし困った顔。
常日頃からの憂い顔がさらに困っているところって、なんだか妙にそそられる。彼がなにに困ってるのかはわからないけれど、もしかして内側でうごめく欲を持て余したとか、そういうことだろうか。
切なげな顔をもっと見たいと思うのは、それが私を抱いている最中の表情に重なって見えたから。まだ?どうして?問い掛けようとした瞬間、男にしてはキレイな指が頬を掠める。
つめたい。なのにふれたところから溶けそう。髪の毛のなかまで、鳥肌がたっている。
ひっ、もれた声をなぶるように、白い指先は頭上たかくへ伸びていく。どこへ行くのかと、視線はそれを追いかけた。
しゃら、やさしい音を立てて開かれたカーテンの隙間からは、白っぽい月光。
「明かりをつけるよりは、この方がいいかと思いまして」
「え…?」
「お邪魔してすみません」
お邪魔、って。
その対象が「眠り」というのなら、むしろもっとお邪魔してほしいくらいなんだけど。
行動も台詞もさっぱり要領を得なくて、そっと首をかしげる。
「晩のぶんのお薬を、飲み忘れてしまったんですよ」
「はあ…」
「なまえさんはもう眠たそうだし、明かりをつけるのは申し訳なくて」
こほん。取って付けたように咳をして、ベッドサイドの水差しへ手を伸ばす。
お薬を飲まずにいると、夜中に咳でなまえさんを起こしてしまいそうですからねえ。そのほうがもっと申し訳ないかなあと思いまして。と、粉薬を咽喉の奥に流し込む笑顔。
「そう だ、ね」
まったく悪びれない彼の姿を見て、ため息がもれる。
そうだった。ハヤテという男は、もともとこんなオトコだったのに。
よく言えば過剰なくらいに紳士的、悪く言えば鈍感で空気が読めないタイプ。悪気なんて全くないのだが、いつもどこかズレているのだ。それはもう、笑ってしまうくらいに。
くすりともれた渇いた笑いには、自嘲の色がにじむ。すっかり忘れていた。勝手に想像力をはばたかせて、盛り上がった自分がバカだったんだ。
そう。思い出してしまえば、腹の立つことでもなんでもない。いつものハヤテがそこにいるだけだ。
「それにしても、いい月夜ですねえ」
ほら、なまえさんも一緒に見ませんか。と頭上の窓に向かう彼の横顔。
呆れるくらいにマイペースな口調も、どこかピントのはずれた空気も、いかにもハヤテらしくて。その緩さがやっぱり好きだ、と思う。
伸びてきた腕に、抱き起こされて。彼のどこにこんな力がひそんでいるんだろう。訝しんでいるうちに、両腕はしっかりと腰に絡み付く。
膝の間にすっぽりと納まれば、ざらざらと掠れたハヤテの呼吸が、鼓膜のそばを撫で下ろす。狡いなあ、それだけで泣きそう。
「ホントだ…ね。きれいな月」
「たまにはお薬も飲み忘れるものですねえ、得しました」
背中に感じるハヤテの呼吸は、おそろしくやさしくて。
とくり。とくり。つたわる鼓動に、心が安らいでいく。相変わらず体内は潤んでいるけれど。いろんな意味で。
「…ん」
「それに、月のひかりを浴びるあなたを見れましたから」
目の前にはきれいな月光、後ろには大好きなハヤテ。そんなベッドの上の世界は、完璧なしあわせのカタチ。
つきあかりこのまま抱いてもいいでしょうか
なまえさん。と、低い声。耳たぶを何度も甘く食まれたら、勝手に力は抜ける。
私の返事なんて、最初から聞くつもりないんじゃないの。
首筋を辿るくちびるは、反論も拒否ものみこんで。襟元からしのびこむつめたい指に、じくじくと這いあがる熱。